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続・『書棚の隅っこ』・落合論文関連。
 ここに紹介されている出久根氏の一文を次に全文引用しておきます。

 ●『書棚の隅っこ』  出久根達郎 リブリオ出版1999.1.20 1500円
 (*初出は、『週刊新刊全点案内』 1997.10.7号~1998.9.29号)

 **************

 ● 草

 「佐伯祐三が、はげしく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位置の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」
 「佐伯は明治三十年大阪に生れ、大正五年北野中学校を出ている。(略)大阪のもつ庶民的な反逆の精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワヘの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」 (安西冬衛「佐伯祐三の位置とその意義」)。

 佐伯祐三真贋騒動を、ご存じだろうか。
 福井県武生市に、吉薗さんという女性から、佐伯の絵が寄贈された。一点ではない。油絵やデッサン、書簡など百八十点もの大コレクションである。しかも、どれも今まで世に知られなかった作品だから、大騒ぎになった。
 武生市は約四億円をかけて、佐伯祐三美術館をこしらえ、これらを受け入れることにした。
 そこに横槍が入った。★東京美術倶楽部が、コレクションの中の一点は、以前、美術倶楽部で鑑定ずみで、真物ではない。他の作品もきわめてうさんくさい、と武生市に申し入れたのである。東美と略称で呼ばれる美術倶楽部は、★有力美術商の団体で、定期的に鑑定委員会を関いている。美術業界では東美の鑑定証がないと、取引対象にならない。つまり、それほど権威がある。
 ところが武生市が委嘱した、美術評論家の河北倫明氏ら、いわゆる専門家側の鑑定は、贋にあらず真である、だった。

 
 真っぷたつに、評価が割れたのである。これは、きわめて珍しいことで、そもそも美術界においては、両者は持ちつ持たれつの関係で、対立するはずがない。一体、何があったのか?
 
 というわけで調査に動いたのが、★落合莞爾氏。その報告書ともいうべき本が、『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』(時事通信社・本体価格二五〇〇円)。
 奥付の著者紹介によれば、落合氏は昭和十六年生まれ、東京大学法学部卒。経済企画庁調査局部員を経て、野村証券入社。昭和五十三年に落合莞爾事務所を設立。株式会社新事業開発本部社長とある。著書に『ドキュメント真贋』他。
 
 まず佐伯祐三とは、どういう画家なのか。『新潮日本人名辞典』によると、明治三十一年生まれの洋画家である。大阪の寺のむすこで中学時代から油絵を始めた。東京美術学校を卒業し、フランスに渡る。ユトリロに感動、帰国し、二科展に出品、二科賞を受賞。昭和二年再渡仏、「郵便配達夫」「ロシアの少女」等を制作。昭和三年六月、神経を病んで、パリ郊外の入院先で客死した。三十歳であった。
 教科書などで一度は目にしたことがあるはずである。黒い制服を着たヒゲの老人が座っている図の「郵便配達夫」、あるいは、落書のように、いろいろな文字が書きちらされたドアを描いた「レストランの入り口」。 
 若くして亡くなったために、残された作品の教は少ない。そのため佐伯の絵は、岡鹿之助や岸田劉生につぐトップクラスの評価で、十号のもので二億教千万円といわれる。
 
 武生市は困惑した。いろいろなことが、わかってきた。吉薗さんは先に岩手県の遠野市に寄贈を申しこんだのだが、断わられていたのである。遠野市は吉薗さんの現住地である。遠野市に佐伯祐三の作品がある、ということがまず疑われたのだ。しかも今まで全く知られていない作品が、百数十点もあるとは。
 何より怪しまれたのは、吉薗さんの父周蔵のコレクションというが、周蔵の★経歴がさっぱり不明だということであった。
 調査によると、吉薗氏の伝記なるものはあるが、記述に信頼性がない。フランスに行ったというが、渡航記録がない。海外で活動したというが、客観的な資料は皆無である。要するに正体不明の人物である。
 
 武生市は結局、絵を持ちぬしに返し、寄贈話はなかったことにした。善意で話を持ちこんだ吉薗さんには、面白くない結果になった。さまざまな事も言われた。そこで吉薗さんは、落合莞爾氏に真贋事件の真相調査を依頼した、というわけである。
 
 落合氏は早速動きだす。まず吉薗周蔵という謎の人物を探る。佐伯祐三の絵が本物か否か、より、佐伯と吉薗がどのような関係を持っていたのか判然すれば、何もかも解決する。
 そして明らかになった事実は、まことに驚くべき一人の人生であった。
 吉薗周蔵は歴史の表に現れなかったが、裏では、さまざまの階層の人物と交流が深かった。陸軍参謀総長の上原勇作、西本願寺門主の大谷光端、首相の山本権兵衛、満映理事長というより大杉栄、伊藤野枝らを殺害した甘粕正彦、陸相の荒木貞夫、陸軍大佐でのちに行方不明となった辻政信。画家の藤田嗣治、ジャン・コクトー、熊谷守一。また共産党の徳田球一。医学者の呉秀三。日本医師会会長の武見太郎。元日銀総裁の渋沢敬三。
 
 こういう幅広い交遊を持つ人の仕事とは、一体何であるか、見当がつくだろうか?
 吉薗周蔵は大正六年八月、上原勇作から妙なことを頼まれた。佐伯祐三という少年が、美術学校に入学するため上京するが、面倒をみてくれ、というのである。佐伯は北野中学出身の秀才で、大谷光端が目をかけていた。佐伯の生家は本願寺派の寺である。大谷は佐伯を★「草」(スパイ)として育成したい、と吉薗に言った。ついてはバックグラウンド作りに協力してほしい。「草」として活動するには、世間に通用する表看板が必要で、佐伯の場合は一流画家でなくてはならぬ。彼が一流に育つよう、何かと配慮を願いたい、と頼んだ。

 吉薗は自分が佐伯とは旧知の間柄に「作らねばならなかった」。まず出会いだが、武者小路実篤を利用することにした。吉薗は若いころ武者小路の「新しき村」で、手伝いをしていたことがある。佐伯は武者小路のファンであったので、武者小路の『その妹』を読んで感動し、画家になれなかった主人公の代わりに自分が絵の道に進んでみようと思う、というファンレターを書いたことにした。その返事を吉薗が武者小路の代筆で認め、そこで二人の文通が始まったという筋書をこしらえた。実際に吉薗は「新しき村」で、読者からの手紙の返事書きをしていたのである。
 佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。贋物(ニセ)とわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数値の佐伯作品となれば、画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。
 なお、「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。

 <完>。
 

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