カウンター 読書日記 『秀吉神話をくつがえす』
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『秀吉神話をくつがえす』
★『秀吉神話をくつがえす』  藤田達生 現代新書 07.9.20

 ●はじめに

 ★創られた「神話」

 貧しい百姓の生まれから身を起こし、ついに天下人となった豊臣秀吉の出世神話は、彼が活躍した時代から四百年余がたった現在もなお、私たち日本人を魅了しつづけている。
主君・織田信長から認められようと、草履取りの頃から健気に尽くしつづけ、一軍を率いる将となってからは数々の大胆な作戦を成功させていく秀吉の姿は、まさしく下剋上の戦国時代を代表するヒーローといえるだろう。
その輝かしくも痛快な一代記は、秀吉の生前、すでに原型が成立していたといわれる。
御伽衆の大村由己が著した『天正記』や、彼の創作になる「明智討」などの豊公能によって、それらは形づくられた。さらに秀吉の死後は、『太閤記』をはじめとする文学や、「太閤記物」と呼ばれる浄瑠璃や歌舞伎などの普及によって後世まで語り継がれてきた。物語を彩る数々の名シーンは、日本人なら知らない者はいないほどであろう。
 秀吉が大衆の人気を集めた理由は、百姓の倅から天下人へという日本史上ほかに例のない大出世もさることながら、伝えられるその性格の明るさにあったのではないかと思われる。暗く陰湿な権謀術数が日常茶飯だった戦国時代にあって、彼の行動はつねに颯爽としていて、身分の低い者や、ときに敵に対しても情けをみせる逸話も数多く伝えられている。彼が本拠地とした大阪ではいまも「太閤さん」の愛称で親しまれているのも、そうした人間味ゆえのことであろう。
 しかし残念ながら、そのような秀吉像は、真実の秀吉の姿とはかけ離れた「創作」といわざるをえない。

 秀吉ファンならば激怒するかもしれないが、この不世出の英雄の正体こそ、みずからの権力欲のためには手段を選ばず、非情な謀略でライバルたちを次々に蹴落としていった策士であった。あろうことか、信長が不慮の死を遂げた本能寺の変をあらかじめ想定していた可能性すら否定できない。そして権力を手中にしてからも、刃向かう者に対しては信長に劣らぬ残虐行為をおこない、民衆に対しては過酷な圧政をしく独裁者だったのである。
 本書では、こうした秀吉の実体をよそに一人歩きしている秀吉像を、「秀吉神話」と呼ぶことにする。
 

 ●「神話」の背後に潜む実像

 「秀吉神話」とは、端的にいえば尾張(愛知県)中村の百姓の子として誕生した秀吉が、信長のもとで驚異的な出世を遂げ、本能寺の変後は亡き主君にかわって瞬く間に周囲の戦国大名を征伐して天下統一(後に、「海外雄飛」)を実現した物語である。・・・略・・・

 ・・では、身分制度も軍国主義も消滅したはずの戦後の平和国家日本においてはどうか。ようやく「秀吉神話」は克服され、秀吉の真実の姿が解き明かされつつあるのだろうか。この問いに対する筆者の答えは、否である。「秀吉神話」は戦後も、現在もなお、かたちを変えて生きつづけている。なんとそこでは、軍国主義の象徴だったはずの秀吉は「平和の実践者」へと、百八十度の転身をとげているのだ。
 三十代以上の読者にはご存じない方も多いだろうが、これは一九八〇年代に通説化され、九〇年代には高校の日本史の教科書にも採用された「豊臣平和令」という考え方による。くわしくは後述するが、秀吉の天下統一事業とは、彼の権力欲によるものではなく、日本に「平和」を現出させることを願ってのものだったというのである。本書で筆者は、これに異議を唱えたいと思う。                                                    「秀吉神話」は、いまも歴史小説や時代劇などを通じて繰り返し再生産されている。「墨俣一夜城」をぱじめ、そのほとんどが史実としては否定されているにもかかわらず、NHK大河ドラマでさえ採用しているのである。さらにぱ、戦後の研究のなかから誕生した新たな「神話」が、秀吉像をさらに肥大化させている。

 本書は、最新の資・史料を駆使して、秀吉の誕生した天文六年(一五三七)から、天下統一を果たす天正十八年(一五九〇)までの五十三年間を中心に、こうした「秀吉神話」の背後に潜む彼の実像に迫ろうとする試みである。
  <続> 


 ●帝国の出現

 現在、「帝国」は国家を超えて拡張しつつある。近年においては、様々な研究分野から一九九〇年代の冷戦の終結と湾岸戦争とによって帝国主義の時代は終焉を迎え、アメリカを中心とする「帝国」が出現したことが指摘されている(ネグリ=ハート)。
 グローバル化による「単一世界市場」と「普遍的交通」のもと、世界的規模で新たな国際秩序が形成され、同時に軍事的共同行動への試みが繰り返されるようになった。日本においても、近年の新自由主義政策の展開や、「国際貢献」を旗印にした防衛省の誕生、それを支えるナショナリズムの高揚など、「帝国」化に向けての大きなうねりがみられる。
 民衆への競争原理の導入や自己責任論の強制、それとは裏腹の政界における世襲制の確立と既得権の拡大というダブルスタンダードは、「帝国」では常識化しつつある。昨今は、「武士道」などの精神論が花盛りだが、これも自己責任論と巧妙にリンクする物語である。
 柄谷行人氏は、「国家の自立性は、戦争において示される(略)。通常、国民は、国家というものが実のところ、つねに他国との戦争に備えていることに気づきません。だから、戦争は突然の出来事のように見えます。しかし、それは長期的な展望と戦略によって用意されたものです。そして、それを実行するのが常備軍と官僚機構です」と明快に述べている。
 柄谷氏は、国家というものが国民に向いた内なるものではなく、また単なる上部構造でもなく、他の国家に対して存在していることを主張する。柄谷氏の議論は、主として西ヨーロッパにおける絶対主義から現代への過程を念頭に置いたものだが、秀吉の場合も天下統一過程では他の戦国大名国家に対して、統一後は束アジア国家や南欧国家(イエズス会)を意識して、戦時体制を整備している。
 当然のことながら、国家にとって平和は戦争の対立概念ではない。国家が誕生して以来、通常は抑止力としての武装によって、時には武力・暴力の行使によって平和が維持されてきたからである。国家は、内向きには常に平和を標榜したが、その実は防衛という名目で仮想敵国を求め、戦争を準備してきたのであり、今日においても変わりはない。
 
 
 ●帝国の平和(既引用)
 
 
 ●おわりに


 東西冷戦構造の終焉・米国同時多発テロ事件……。一則世紀末から今世紀初頭にかけて続発した大事件の影響をうけて、歴史学をめぐる環境は大きく変貌した。かつて広く関心を集めたグランドセオリーに関わる議論ぱ影を潜め、「実証」を使命とする職人的研究者による零細分野と化したようにも思われる。
 それでも天下人を登場させる時代劇は、相変わらず人気を診っている。ただしその内容は、戦国武将とその家族が一緒に仲良く食事をしたり、夫婦連れだって町を闘歩したりするというもので、史実を無視し浅薄な共感を期待したホームドラマである。
 映し出される美しいシーンからは、先人が克服しようと闘ってきた様々な差別は、みごとに欠落している。慢性的な飢餓や絶えざる抑圧と暴力といった不条理も、ほとんど描かれていない。あえて言うならば、制作者側に過去も現在も変わらないとする非歴史的な前悦があり、結果的に視聴者に対して「歴史に学ぶべきものはない」とする先入観を植え付けてはいないだろうか。
 小著を執筆するにあたって気になったのは、日本史の分水嶺というべき秀吉の時代と現代の社会状況が、きわめて近似してきているということである。この思いが、小著執筆の直接の原動力になった。

 秀吉の「帝国」は、南欧勢力の外圧を背景に、独裁者と彼に与した中央の諸大名・領主と豪商が、地方の弱者を「征伐」した末に誕生した。彼らは「平和」を標榜して地域社会を破壊し、前途有為な若者を異郷さらには異邦の戦場に送り込んだ。
 もちろん、近代そして現代への安易なスライド思考は慎むべきである。しかし秀吉の周囲で創造された彼にまつわる神話や「惣無事」というスローガンが戦争をあおったことと、新聞などのマスコミが「事実」をつくり、世論を誘導してアジア諸国を侵略した近代とどれほど違うのか。そして相貌を現し始めた現代の「帝国」は、またしても「平和のための戦争」を容認するのだろうか。・・・以下略・・・。
 

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