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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―3
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―3
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡   

★欧州大戦と安直戦争の波―高島=上原ラインの暗躍 

 
  話を元へ戻す。大正六(1917)年一月、東亜煙草は辞職する藤田謙一の後任取締役に鈴木系の長崎英造を選任した。同時に菅野盛次郎が社長に就任するが、周蔵は当時欧州探索中だから、東亜煙草株を菅野と共有したのはこの時でなく、大正八年の増資の際であろう。欧州大戦の影響で、満洲の経済界は好況に沸くが、英米煙草トラスト(BAT)の活動は朝鮮・満洲では消極的だったので、東亜煙草社の売上は急激に伸び、大正六年は前年同期比51%増にもなった。ロシア革命が起こり、翌七年八月のシベリア出兵も需要増加要因となり、上昇機運に乗じた東亜煙草は、上海のイタリア系オリエント煙草を買収し上海工場とした。八年の総会では長崎が取締役を辞め、後任に鈴木商店煙草部担当・岡田虎輔が就く。中華民国では日貨排斥が盛んになり、翌年の安直戦争で親英米の直隷派が親日政権の安徽派・段祺瑞に勝ったのを見て、BAT社は積極的姿勢に転じた。苦境に陥った東亜煙草は、十月には買収したばかりの上海工場を偽装運営することを余儀なくされ、翌年にはその名義を表面上外人に変更した。

『大阪毎日新聞』大正八年七月二十九日に増資の記事がある(概要は前月号にも述べた)。
「『東亜煙草開展』朝鮮煙草官営の結果、東亜煙草会社にては今回一千万円に増資する事となれるが、増資の内情に就いて聞くに、東亜の朝鮮における煙草製造販売権は本年限りを以て一切之を総督府に引継ぎ、進んで満洲・支那・シベリア・蒙古方面の煙草界に雄飛すべき目論見にて、奉天には支店及び製造所を設け、同時に吉林付近に一大煙草栽培業を経営せんため別に姉妹会社を建て、以て、英米トラスト等と対抗して其の勢に食い入るべく大計画を樹立するものの如く、既に総督府にては十分の了解を遂げおれりと伝えられ、総督府は東亜の進出と共にかつて韓国政府時代の約束に基づき、朝鮮内に於ける煙草の専売を愈々実行する 全鮮に亘る煙草製造会社或いは個人営工場二十八箇所を買収して、内地同様の制度を設けて煙草の製造・販売をなすべき計画の由なり」

この時の増資に際し、菅野が必要とした払い込み金を周蔵が立て替えたものか。東亜煙草は十年七月、鈴木商店と契約を交わし、同商店の海外販売力に期待するが、執拗な日貨排斥とBAT社の反攻により実績は上がらなかった。 同年、朝鮮に、いよいよ煙草専売制が実施され、最大の商圏を失う東亜煙草は朝鮮総督府に補償を要求する。東亜煙草は、朝鮮の煙草専売制に先行して、大小煙草業者を買収し、煙草事業の統一に努力したのに「専売制移行に対して総督府が引取る東亜煙草資産の評価と補償額が低過ぎる」と主張したのだが認められなかった。東亜煙草の経営危機が進むにつけて、鈴木色はますます強くなり、十一年五月二日の臨時株主総会では菅野社長を含む取締役全員が辞職し、補欠選挙で新取締役七人(鈴木系六人)、監査役三人(鈴水系二人。菅野は大蔵省出身ながら天下りの当初から上原勇作の隷下にあったことは間違いない。八年の増資に際して払込金を周蔵に仰いだのも、上原(その裏はギンヅル)の差し全で、周蔵は親方の命令に従っただけである。

 東亜煙草の経営危機は更に進み、十一年の総会で菅野は辞職、取締役会は互選で新社長に南新吾、新専務に岡田虎補を選任するが、これは創立以来の「専務は専売局が推薦する専売局出身者に限る」という慣例を破るもので、「国益を担って国際市場でBAT社と戦っている国策会社の専務に鈴木商店子会社の社長が兼任するのはいかがなものか」と世間の批判を浴びたが、十四年に岡田専務が辞任して専売局出身の石原専務に代わったことで改善された。新社長・南新吾は元台湾銀行理事で、台湾銀行以来、南の側近たる松平慶猷(敬猷とも記す)も東亜煙草に入る。この松平こそ、チヤのいう★「越前松平の殿様の一族」と思われる。昭和金融恐慌の根源として日本近代史を揺るがせた★台湾銀行と鈴木商店の深い関係は、前者の実質的創業者が杉山茂丸、後者の実質的指導者が高島鞆之助→上原勇作と知れば、由来を容易に理解できるだろう。薩摩ワンワールド配下の台湾経済人から南と松平を選び、東亜煙草に入れたのは、上原勇作による人事であろう。ことほど左様に鈴木商店・東亜煙草は★高島鞆之助の遺産で、陰で上原勇作が牛耳っていたのである。

 南社長の就任後も東亜煙草の経営難は続いた。朝鮮総督府に補償を請願するが捗らず、専売局からの支援もゴールデンバットの製造受託だけに止まり、活路を求めて昭和二年に競合会社の亜細亜煙草を合併した。昭和五年不況の進行で煙草需要も低迷して経営が困難を増す最中、南社長が急逝し(自殺とされる)、代わって大蔵省出身で鈴木商店幹部の金光傭男が社長となる。金光も大蔵省でなく、実質的に鈴木商店からの派遣で、背後にはやはり上原勇作がいた。
翌昭和六(1931)年、満洲事変(「9.18事変」)が勃発するや満洲の紙巻煙草需要は激増し、、東亜煙草の業容は一転して拡大気運となった。昭和十二年七月の支那事変(7・7盧溝橋)で華北の需要も増加したので、東亜煙草は同年11月の臨時株主総会で、関係会社として満洲東亜煙草・華北東亜煙草を新設する。前者の取締役の中に松平慶猷の名を見て、チヤの言「周蔵さんの株を越前松平の殿様の一族の人に預けた」を想起する。
松平は南の自殺後も東亜煙草に残り、十二年に満洲東亜煙草設立の際、役員になったのだ。八年に死去した上原の東亜煙草に関する権力は荒木貞夫が受け継ぎ、周蔵はその配下となる。関連会社設立を決めたのも荒木→周蔵のラインで、チヤの右の言は、満洲東亜煙草新設に際して、周蔵が自分の出資分の名義を新役員松平慶猷にしたことを意味するのではなかろうか。

  <続>
 

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