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>●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―2
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―2
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡   落合莞爾

★初代日商会頭・藤田謙一と台湾基本政策の転変  


  水之江の『東亜煙草社とともに』他によって東亜煙草社史を要約すると、以下のようになる。
 東亜煙草株を買い集めた鈴木商店は、大正二年十二月二十四日の東亜煙草株主総会で★藤田謙一を取締役に送り込む。『弘前商工会議所』編集発行の『藤田謙一』によれば、藤田は豊臣方の武将・明石掃部の末裔で、明治六(一八七三)年、弘前藩士・明石栄吉の次男として生まれ、藤田家に養子入りした。東奥義塾中退後、青森県属・給仕となったが、明治二十四年に辞職して上京し、明治法律専門学枚(現在の明治大学)に入学、創立者・熊野敬三(注:明治大のHPでは、創立者に熊野の名はない)書生となる。三十二年二月、栃木県属となった藤田は九月に大蔵省専売局属に転じ、煙草専売制度を担当し、この時、蔵相・曽根荒助の知人後藤勝造と相識る。折から日清戦後の財政増収を図るため葉煙草専売法を公布、栽培業者の猛反対を押し切って三十一年に施行した直後である。生産・製造・販売一貫の完全専売制の実施が迫る中、大小の製造業者が乱立して過当競争に陥っていた。業界トップの岩谷商会も経営危機に瀕しており、社主の岩谷松平は後藤が推薦した藤田に商会の一切を委ねた。三十四年六月に専売局を退職した藤田は、翌年支配人として岩谷商会に入り、会社組織に変更して専務理事となる。藤田が英米煙草トラストに対抗して国産品天狗煙草を売り込み大成功を収めたので、三十七年の専売制度の完全実施に際して、政府による岩谷商会の買収金額は巨額に上った。四十年、藤田はまたも後藤に招かれ、名古屋の豪商・小栗家の整理に当たることとなり、四十二年五月小栗系の東洋製塩の取締役に就任し、翌年台湾塩業と改称し、建て直しに成功した。藤田の前に小栗家の整理に手を出して失敗した鈴木商店の大番頭・金子直吉は、藤田の手腕を見込み、招いて参謀とし、関東所在の傘下会社を任せた。鈴木商店の関連事業本部長といったところである。鈴木商店は大正年間に急成長した企業集団で、その沿革は前月号で述べたが、金子直吉が台湾民政長官・後藤新平に協力し、 三十二年台湾産・樟脳油の六五%の販売権を得たことが発展のきっかけとなった。

 台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策の起こりは二十八年四月一日、第二次伊藤内閣に置いた台湾事務局で、有名な阿片漸減政策はこの時、内務省衛生局長・後藤新平が建白し、軍医総監陸軍省医務局長・石黒忠 も支持したので、伊藤総裁(兼務)が採用を決定した。台湾事務局は二十九年四月一日付で新設の拓殖務省となり、初代大臣に高島鞆之助が就き、三十年九月まで、台湾政策の策定と総督府の監督に任じた。高島の立場でこの経緯を見ると、初代総督(二八年五月~二十年六月)の樺山資紀は高島の盟友で、高島のライヴァルで長州の寵児・桂太郎が二代総督になるが、四か月の腰掛けで実際には赴任しなかった。
 三代総督(明治二十九年十月~三十一年二月)乃木希典も長州人だが大阪時代から高島に親暚し、媒酌も依頼した仲である。折しも二十九年四月から三十年九月まで台湾政策を総覧し総督府を監督した拓殖務大臣は高島自身なのだから、乃木総督が台湾産業政策について高島路線に忠実だったのは当然である。乃木の後任が児玉源太郎である。巷説は児玉総督と後藤民政長官のコンビを強調し、桂・乃木時代の台湾治績に、見るべきものはないと言うが、それは土匪跳梁を抑圧しきれなかったことで、 児玉時代に土匪が帰順した。
従来、巷説が言う台湾統治とは、治安問題と社会政策的観点から見た阿片漸禁政策に重きを置き、産業政策を軽視している。台湾専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳・食塩について実施された。ゆえに鈴木商店が販売権を得たのは、児玉・後藤の時期であるが、その政策に専売制度の根幹を作った高島の意向が影響して当然である。

また★後藤新平が曲者で、桂・児玉の長州系に繋がると見えながら、岳父・安場保和の関係で玄洋社にも通じていた。黒田藩浪人の結社たる★玄洋社は、真相は薩摩のダミーで、この関係は黒田斎清の女婿になった島津重豪の九男斎溥が黒田家を継いだことから始まり、後年の上原元帥に至っては頭山や中野正剛を私兵として使っていた。後藤の右腕の中村是公(漱石の友人)が、上原元帥の嗣子・七之肋に息女を嫁がせていることも後藤の隠れた一面を物語る(ここまで書いて、折よくこの見解を裏付ける★資料に際会したから、次稿で詳述する)。
ともかく高島が陸相の座を追われた三十一年頃から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木を通じて東亜煙草との関係も深まったと見てよい。その利権は、高島(大正五年逝去)の遺産として上原勇作が引き継いだのである。
 
後に東京商工会議所の第五代会頭として日本商工会議所の創設に奔走し、初代会頭に就いた藤田謙一は後藤新平四天王の一人と呼ばれ、後藤内閣が実現していたら大蔵大臣になったと評される(『藤田謙一』)。
玄洋社の頭山満と親交があった藤田には後藤も一目置き、商人扱いを超えた交誼があったというが、藤田は★薩摩ワンワールドの密命を受けて杉山茂丸の役割を承継し、後藤や長州軍人間との間を周旋していたのだろう。孫文ら亡命要人を匿い、ユダヤ満洲共和国の建国計画に参画した藤田は、フリーメーソンの日本代表と噂されたが、当否はともかく、何時の頃にか日本ワンワールドの上席に就いたものであろう。
  <続>
 

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