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『犬身』
『親指Pの修業時代』からもう14年にもなるのだろうか。

 松浦理英子の新作、『犬身』を読みはじめた。(朝日新聞社 07.10.30)

 第一章 犬憧 (p128まで)を読み終えたところだが、

 評判どおり、「松浦ワールド」全開!

 書き出し部分を、少し紹介しておきます。


 *************** 

 第一章 犬憧
 遠くで犬の啼き声がした。遠くといっても、今窓辺に行って待てばほどなく窓から見える風景のどこかを犬の姿がよぎるかも知れない、と期待できるくらいの距離で、啼き声が耳に入った瞬問パソコンのキーボードを打つ手をぴたりと止めた八束房恵は、立ち上がって五歩で窓辺に寄り十センチほどあいていた窓をさらに大きくあけると、外に身を乗り出した。
 啼き声の主はこちらには向かわず遠ざかる方角に進んだらしい。しばらく佇んでいても、マンションの二階から見下ろす住宅街に犬は現われず、人影もまばらな通りは眠たげに静まっているだけだった。房恵は眼を上げてずっと先の犬啼(いぬなき)山を眺めた。見馴れた小高い山は、九月の終わりの今はまだ青くこんもりとしている。振り返ると、パソコン二台、会議用テーブルと作業机を兼ねた広い机一脚、本棚二本の置かれた六畳ほどの仕事場が薄暗く垢じみた獣舎のように見える。席に戻・り、再びパソコンに向かって文章を打ち込み始める。
              20071126173717.jpg


 私が生まれた愛媛県は犬のかたちをしています。小学校の郷土についての授業でそう教わり、地図で確かめたらほんとうに犬が走っている恰好にそっくりで、尻尾まで生えているのに驚きました。そうです、実は私はこの地方の出身ではないのです。それが、本誌編集長の誘いでここ狗児市(くじし)にやって来て『犬の眼』という名前のタウン誌を作っているのも、何かの因縁でしょうか。今ふと思ったのですが、「因縁」の「因」という字、クニガマエの中を「犬」じゃなくて「犬」にしたら、この文章にぴったりですね。(Y)

 『犬の眼』巻末の編集後記の文章だった。署名込みで二百三十五字と確認すると、房恵はパソコンをあやつって、書き上げた文章をレイアウト・ソフトで作成した原稿画面の中の編集後記欄に移す―専門用語で「流し込む」という作業を行なった。
デスクトップ・パブリッシングのことなどほんの三年前までは何も知らなかったのに、今では一通りのことがこなせるようになっている。房恵はついでに編集長の久喜洋一が先に流し込んでいた編集後記を読んだ。
 『犬の眼』十一月号をお届けします。ビールのうまい季節も過ぎましたね。と言いながら、
私も含めて大半の日本の酒飲みは、結局一年中何かにつけビールを飲んでいるわけですが。そういえば、昔は一日の終わりに五百mlのビールを一本飲むと、すごく贅沢な気がしたものでした。今じゃ昼間は水代わりにガブガブ飲み続けていて、ありがたみもなくなったような・・・。夜は飲んでないですよ、夜は。日が暮れると別の酒を飲むのです。さて今夜はどこに飲みに行こうかな。
そうだ、『大の眼』を見てみよう(笑)。(K)

 それは編集後記の文章なんてそうしゃれたものはなかなかないだろうけれど、と房恵は思った。わたしの書いた文と久喜が書いた文に、大して出来の差はないんだろうけれど。久喜の文章を読んだ後のこの寒々しさをいったいどうすればいいんだろう。

 それほど魅力的な犬というものに自分もなりたいと願うのは、房恵にとってはごく自然な心の動きだったから、小学校二年生の時学級文集用に「わたしは犬です」という題名の作文を書いたりもしたのだけれども、クラスの口の悪い男子の何人かに「じゃあ首輪をつけろ」とか「おすわり、お手をしろ」というような野卑なことばを浴びせられて、どうも自分の願いはあまり人に共感してもらえないようだと悟り、それからはめったに犬になりたい、犬でありたいという願いを人には漏らさなくなった。
 漏らさないかわりに胸に宿した願いを房恵は熟成させた。小学校時代は「自分は犬のはずなのに、どうして人間の姿で生きているのか」とか「犬の姿になる時はどんなふうにしてなるのか」といった問題に対する答を、毎晩蒲団の中で熱心に考えた。

 人間の姿になったのは、きっと犬だった時に悪いことをしたからだ。犬がどんな悪いことをするだろう? 犬の仲間に対しての悪いことに違いない。熊とか猪とか野犬狩りの人間とかの外敵が群れに追っている時、分別のつかない仔犬が不用意に飛び出して自分だけではなく自分を守ろうとした母犬や、その他何匹かの犬を死に至らしめる、というふうな。ああ、確かにこれはひどい、悪いことだ。罰として人間に変えられてもしかたがない。
 で、元は犬だった人間には、体のどこかに犬の頭の形をしたできものがあって、それは人面瘡ならぬ犬面瘡と呼ばれているのだけれど、人間として悲しい思いをするたびに犬面瘡は成長して、だんだん頭以外の部分、背中やら尻尾やらも盛り上がり形成されて行く。それにつれて人間の体は吸収されて小さくなって行って、最後の方は、人間の部分の体積と犬の部分の体積が逆転して、人面瘡のある大が四本足で歩き回るようになる。その人面瘡を嫌った人間が棒でひっぱたくと、それは裂けて血しぶきとなって飛び散り、大はどこにも人間の部分がなくなって、完全な犬に戻りいずこへともなく走り去る。

 来る日も来る日も空想に遊び続けていると、だんだんお話作りが趣味になって来て、まだ滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」も「犬婿入り」の民話も犬租伝説も知らないうちから、「犬が人間になる話」「人間が大になる話」を幾種類も小学生の房恵は編み出した。
 たとえば、物心ついた頃から不運が続き、独りぼっちで野良犬たちしか親しむ相手もいない男が、人生最大の不運な行きがかりから人を殺めて逃亡、追手に斬りつけられ瀕死の状態でようやく森に辿り着き、倒れ込んだところへ犬の群れが現われて、男を取り囲んでぺろぺろと砥めまわす、砥めまわされるうちに、男の姿は少しずつ犬に変わって行き、やがては群れの中の一頭として森の奥へ消えて行く、という話。
 また、人間の女に恋した犬が人間の男に化けて目当ての女に近づくのだけれども、人間の作法を知らない大男は無器用に女につきまとうだけなので、女を怯えさせてしまい変質者扱いされて、女を守ろうとする人間に撃ち殺されてしまう、血を流して横たわった男は本来の犬の姿に戻る、それを見た女は生来動物好きだったので「犬のままでよかったのに」といまわの際の犬に語りかけ、血まみれの体に腕をまわす、犬はかすかに尻尾を振ると、こときれる、という話。これは六年生の時に夏休みの宿題の作文として書いて提出したら、秋田犬を飼っている担任の女性教師が「泣いた」と言ってくれた。・・(続)。
 

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