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選挙とは(2) 竹内芳郎  
 ●選挙とは(2)

 竹内芳郎 『ポストモダンと天皇教の現在』(1989.4.20筑摩書房)の

 Ⅳ.ポストモダンにおける知の陥穽 より。
 (初出:「世界」誌 1986.11月号)

 
 ****************

①~③:略・・

④:しかしながら、欧米近代よりも日本近代の方がより「進んでいる」のは、なにも教育の場だけのことではない。もっと広く、いわゆる「先進国」社会の支配的イデオロギーたる〈民主主義〉の点でも、日本近代は欧米近代よりも(*註:ポストモダン論者によれば、)「進んでいる」らしい。理由はこうだ。
 
 このあいだの衆参両院議員の同日選挙において自民党が圧勝したことについて、マスコミをつうじて世の賢者たちがさまざまな理由づけを述べ立てているが、それらに共通して言える難点は、今日の選挙制度における投票で示される〈国民の意志〉なるものが、「今後日本はどうあるべきか」についての個々の国民の自由な意志表明ででもあるかのような擬制を、あらかじめ前提としてしまっていることだ。しかし、この擬制は、およそ日本の選挙の実態からはほど遠いのではないかと、私なぞぱかんがえる。わが国のマスコミは、選挙まえにはうるさいほど実態調査をしながら、ひとたび選挙がおわってしまうと、投票がどのような仕方でおこなわれたのかについての追跡調査をまったくといってよいほどしてくれないので、所詮は憶測にたよるほかはないが、私見では、すくなくともわが国の選挙では、たとえば、誰かに金をつかまされてしたとか、つき合い上の義理でしたとか、人情にほだされてしたとか、あの侯補者ぱなんとなくカッコイイから趣味上でしたとか、地元や所属集団に金をおとしてくれそうだからしたとか・・といった〈私的〉関心から投票がおこなわれるのが大半であって、私的利害とは関係なく純粋に〈公的〉な立場から、わが国の将来を慮りつつ政策を見て投票するような人は、左右を問わずごくわずかしかいないのではないかと思われる。

 投票が〈私的〉関心によるのか〈公的〉関心によるのかを峻別しないで〈国民の意志〉なるものを云々することがいかに怖るべきことになるかーそれを私にはじめて実感させてくれたのは大分まえのこと、あの六〇年安保闘争後まもなく『読売新聞』だったかの片隅に出た一つの囲み記事を見たときだった。

それによると、或る寒村でのこと、選挙のときには当然ながらいつも自民党が圧勝するのに、或るとき党や人とは無関係に日本の進路についての政策に関して意見投票をしてみたら、なんと当時の共産党の掲げていた政策に最も近いものが最も多くの票を集めた、というのである! むろんいつもこういう結果になるとはかぎらないにしても、公と私とのこのようなはなはだしい乖離を前提としなければ、今日のわが国で、一方では反核署名を実施すればたちまち一千万もの名が集まるのに、他方では、選挙をすれば、レーガンの核軍拡路線を無条件に支持している自民党がいつも大量の票を獲得するという珍現象も、とても理解することはできないだろう。
  *選挙のたびに莫大な金がばらまかれ、買収費一票あたり平均7200円〔警察庁しらべ〕という相場までついているのに、この投票仕方を無視して選挙結果を論ずるのは偽善もはなはだしい。

 実際、わが国の選挙制度のもとで表明される国民の意志なるものは、根本的にはいつも〈私的〉意志以外のものではなかった。このことを最も劇的に実証したのは、そのまえの衆議院選挙〔83年12月施行〕のケースであって、マスコミでは「田中判決選挙」と命名されていたこの選挙で、当の田中角栄氏が未曾有の驚異的得票を集めただけではなく、全国的にも田中軍団が大勝利を博し、自民党内で最大派閥を形成するにいたった。

 当時の世論調査の結果では、国民の85パーセントまでもが「田中は議員をやめろ」と叫んでいた(これはむろん〈公的〉意志表明)にもかかわらずだ。このとき田中を支持する秦野章氏は、「政治家に倫理をもとめるのは八百屋で魚をもとめるに等しい」と言い、「この程度の国民にはこの程度の政治家がふさわしい」と放言していたが、この言たるや、この言に憤慨して金切声をあげていた野党政治家たちの意見よりもよほど正確に実態を衝いていたのであって、まことに日本の戦後民主主義は、制度的に金権政治と不可分なのである。
 *なお、この選挙で自民党が大幅に減票した理由はそれとはまったく無関係だと推定できることについては、私はすでに84年2月11日付『図書新聞』紙上で分析しておいた。

 けれども、ここでの問題は、そこにはない。それよりもむしろ、これこそが実はブルジョア民主主義の最も「進んだ」形態ではなかろうか、という点なのだ。『国家と民主主義』(現代評論社刊)第一論文で論じておいたように、近代民主主義にはもともと二つの源流があり、一つは公私分裂を前提として私有財産保全をめがけるロック出自の自由主義的民主主義、他は破私立公を前提として人間的自由実現をめがけるルソー出自の権力人民化の民主主義。

 近代市民社会でほんとうに実現して行ったのはむろん前者であったが、それでも後者との抗争のなかで後者の本質的部分をも吸収せざるを得なかったせいか、すくなくとも欧米では前者が純粋に自己を貫徹することはなかったかにみえる。ところがわが国の戦後民主主義では、前者がなにものによっても妨げられることなく純粋に自己を貫徹することができたのであって、その端的な表現が、金権政治を本質とした自民党の永久独裁政権だったわけである。そして資本の論理、企業の論理からみて、これほど効率のよい政治形態はないはずであって、実際、欧米でのように、二大政党(しかもその一方は多少とも社会主義的性格をもつ政党)間でしばしば政権交替をやらかされていたのでは、企業としては長期展望をするのに不都合を生じ、苛立たしくて仕方がないのである。とすれば、近代社会のご主人たる企業の目からすれば、わが国の金権民主主義こそ欧米のそれよりもはるかに「進んだ」近代民主主義形態であるはずであって、こうしてわが国では、人権思想は私権擁護へと転化し、「欧米の個人主義」は「日本の利己主義」へとおのれを純化したわけである。両者を区別する装置ももたないで、ポスト・モダン思想が〈近代的自我〉を超えるのだと無邪気にはしゃいでいるのは、けだし噴飯ものだと言うほかはないだろう。
  * 戦後日本で自民党が永久独裁政権だという事実に比すれば、今回の「圧勝」なぞまったく二次的意味しかもたない。
 
 

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