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醜悪な幼稚さ
★最低限の共通前提が崩壊寸前にみえる日本。
 醜悪な幼稚さのみが目に付き、亡国へ一直線。
 


●「誠実」と「人間の尊厳」

 政治・経済などの現実の問題をいかなる方向に解決して行くかということを考える時、われわれは、人間とはそもそも何ものか、人間の社会とはそもそもいかにあるべきか、人回としてはそもそもいかに生きるべきかなどという普遍的な問題を考えなくてはならないであろう。われわれの社会はいうまでもなく人間の社会であり、われわれは人回としてより人回らしく生きることを求めているのであるから、このような普遍的な問題を追究することがなくては、現実の問題を判断し解決する基本的な規準がないことになる。
 ところで、私が「現代社会」の人間の生き方について常に考えつづけていることは、日本人がこれまで、そして現在も、人間というものをどのように理解し、どのように生きることが人間としての正しい生き方であると考えてきたかということであり、さらに、この日本人の考え方が、まったく反省の余地のない完全なものであるかどうかということである。
 
 日本人には、事を行う時にも、他人と交わる時にも、一点の私心を混じえない純粋な心になり、全力をあげて事を行い、他人や社会の為につくすことを理想とする傾向が強く流れてきた。今もこの点は変りがない。たとえば、「誠実」であることを否定する人はないと思う。否むしろ、「誠実」でありさえすればそれでよいのだと考えている人が多いと思う。「誠実」とは、事を行い、他人と交わる時に、純粋で全力的であることであろう。この「誠実」の標榜ははっきりと近世からはじまっている。近世ではおもに「誠」とか「至誠」という言葉で捉えられていたが、この「誠実」をまず強く説き出しだのは、京都の町家出身の伊藤仁斎であり、この「誠実」を重んずる傾向か絶頂に達しだのは、近世では幕末である。幕末の志士はただ「至誠」を叫び、「至誠」に生きようとした。しかし、心の純粋さを重んずる傾向は近世にはじまったものではなく、それは歴史はじまって以来の強い傾向である。その傾向が近世において「誠」としてうけつがれ、現代においてまた「誠実」の尊重としてうけつがれているのである。

 いうまでもないことであるが、日本人のすべてが、純粋に全力的に生きてきたというのではい。純粋で全力的であることが、人間としての生き方の理想であると考えてきたというのである。もちろん、現実的には、不誠実な行為が盛んに行われてきた。今日においても、たてまえと本音の使いわけなど不誠実な態度が世の中には横行している。しかし、われわれは、そのような不誠実な態度を、人間としての正しい生き方として認めてはいない。あくまでも「誠実」でなければならないと思っている。
 この純粋で全力的であろうとする伝統的な、「誠実」の標榜は、日本人の精神のすばらしさの一面を示している。「誠実」と口にいうことは簡単であるが、実際の生活の内で「誠実」に生きることは容易でない。幕末のような社会状況で「誠実」に生きることは、生命をかけることであった。今日とても、本質的に変るものではない。周知の『葉隠』の「武士道と云は、死ぬ事と見付たり」も、極めて異常な考え方と思われるかもしれないが、実は人間の自愛心利己心の深さを見つめて、事に当たって純粋に生きる仕方は、ただ「死ぬ事」以外にはないと理解したものである。『葉隠』もいわば「誠実」を追求した書物であり、そこにわれわれは「誠実」であることの容易に為し難いことを改めて知るのである。
 
 われわれは、われわれの祖先が求めつづけて来たものの精神的な高さを思わないではおられない。しかし、われわれはまた、純粋で全力的であればそれだけでよいのかとも考えなくてはなるまい。たとえば、今、私の前に一人の人がいる。その人に対して、私は純粋に全力的でありさえすればよいのか。余りにも飛躍していると思われるかもしれないけれども、私が一点の私心もなく純粋に考え、その人の生命を絶つことがその人の為になると思ったとすれば、その人の生命を絶つことが(たとえば母子の道連れ心中のように)「誠実」なのか。これは余りにも飛躍した論の運びになっているが、私がいいたいのは、日本人が標榜してきた「誠実」というのは主観的であって、したがって、具体的にはいかなる行為をも「誠実」の名において行うことになるということである。「誠実」は、自分が「誠実」だと思い込むことにおいて、何をしでかすかわからないという危険性をもっているということである。この意味において方向性がなく歯止めがないのである。

 ところで、私たちは、いかなる人間も、「かけがえのない自己」としてあることを、いかなる場においても忘れてはならず、「かけがえのない自己」としてある人々に対する畏敬を持だなければならないと思うが、このいわば「人間の尊厳」の自覚を「誠実」というモラルが十分にふくんでいるかどうかが問題である。伝統的な「誠実」は、主観的心情の純粋さの追求であって、自分の前にいる他者なるものの知的な、さらにいえば哲学的な自覚ではない。ひたすら心情の純粋性を追求してきたわれわれにとって、どうしても、人間とは何かという反省・自覚は手薄なものとならざるをえなかった。われわれ日本人が、今、しっかりと自分のものにしなければならないのは、特にこの人間とは何かと問うことにおいて捉えられてくる「人間の尊厳」の自覚ではないであろうか。それは他者が尊厳なる人間であることの自覚であるとともに、自己もまた尊厳なる人間の一人であること、しかして社会は、その尊厳なる人間によって構成されていることの自覚ではあるまいか。われわれの伝統的なすぐれた「誠実」も、この「人間の尊厳」の自覚をふまえて、それを内につつむものとならなくてはならないであろう。
 
 日本人が「人間の尊厳」という思想にふれてからすでに久しい。しかしこれはさらに、生活のすみずみに、精神のすみずみに浸透させなければならない。それは伝統的な「誠実」の内にもこの「人間の尊厳」の自覚を浸透させることであり、それによって伝統的な「誠実」のよさをよりよいものにつくりかえることである。これはいうべくして容易ならぬ課題である。だがこれが現代の日本人の課題であり、その課題に答えることが、伝統を生かし西洋文化のよさをわがものとすることであろう。
 私は、日本の土壌に育った人類の一員としてのわれわれのもっとも基本的な精神的な課題はここにあると思う。したがってそれは、私がもっとも強く青年に語りかけ、共に追究したい課題である。

 ★相良亨『誠実と日本人』より(ぺりかん社 1980.11.1)

 

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