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ルイス・トマスを読む(3)
★「医学と公正さ」の引用を続けます。
 

私たち西欧世界の人間が「健康」という言葉を使うとき、それはたんに生存や人の自由を奪ってしまうような重大な病気がないという以上の意味をもっている。健康であるためには、私たちは幸福であるとともに経済的に豊かであることも必要だと考える。しかしこの場では健康という言葉を昔ながらの意味で使う道をとろう。
 
 ちょっと想像を飛躍させて、富める国々が自分たちの一切の医療技術のコピーを、貧しい国々に輸出することができるような経済環境を考えてみよう。これにはおそらく、中央アフリカ、アジア、南アメリカの大都市に、マサチューセッツ総合病院やスローンケクリング記念ガンセンクーなどのプレハブ版を設置することが含まれるだろう。加えて、医療専門家、世界に冠たるアメリカのトップクラスの医科大学のレプリカを送りこむことになるだろう。そしてこのような計画を支えるための、少なくとも25年分の資金が必要だろう。こういった気前のよい援助のもつ効果はゼロまたはそれ以下だと私は思う。地域社会を牛耳っている体制のメンバーである裕福な人びとは、間違いなく新しい病院の出現を喜ぶだろう。ロンドンやニューヨークの病院へ飛ぶ飛行機代が節約できるだろう。しかし貧しい人びと、とりわけごみごみしたスラムや町から遠く離れて片田舎に住む人びとにとってはまったく関係がないか、逆に悪い影響さえ出るかもしれない。あらゆる利用可能な資金は、彼らの健康の問題とはおよそかかわりのない技術に注ぎこまれるからである。
 
 私たちの世界は分裂している。私たちのような社会にあっては、今日のおそろしく金のかかる医療制度は、第二次大戦後の何十年かのあいだに、主として中高年の人びとの健康への懸念に対処するためにつくりあげられてきたものである。19世紀にはじまった、私たちの社会の一般的な健康の改善はこれまでに、若すぎる死というのは純然たる日々のできごとではなくなり、どちらかといえば気にかかってならない、多少神経症的な心配ごととなってしまうほどに、高いレベルに到達してしまったのだ。私たちの関心はガン、心臓病、脳卒中などに集中し、第三世界で毎日のように多くの人びとの死の原因となっているものによって若くして死ぬ心配をする必要はない。私たちの健康がこれまで目ざましく改善されたことに疑問の余地はない。しかしどうしてそうなったかについては議論が絶えない。ひとつ確かなことがある。それは医学のためでも、医科学のためでも、医師の存在のためでもないということだ。

 功績の多くは西欧社会の上下水道関係者や技術者の仕事に帰せられるだろう。ヒトの屎尿による飲料水の汚染は一時ヒトの病気の唯一最大の原因だったことがあり、第三世界にとっては飢餓やマラリアとならんで、依然として最大の原因でありつづけている。腸チフス、コレラ、赤痢は19世紀初頭のニューヨーク市にとっては生存に対する最大の脅威だった。そして上下水道や衛生施設の技術者が都市の建設にあたって彼らの仕事をやり終えると、これらの病気は消滅しはじめた。今日、わが国ではコレラの名を耳にすることがない。しかし私たちが昔ながらのやりかたで飲み水を手に入れようとすれば確実にふたたび姿を現わすだろう。
 
 しかし水道の普及の前に、私たちの健康の問題に別の何かが起こった。何らかの理由で、17世紀から18世紀にかけてアメリカやヨーロッパで、私たちは豊かになり、生活のスタイルを変えることができた。最初の、そして最大の重大な変化は農業の改良、ひいては栄養、とりわけ小さな子供の成長に必要な食料の量と質の改良だった。私たちの生活の水準が上昇するにつれて、よりスペースのある、寒さから身を守る、よりしっかりした家を建てるようになった。

 これについての医学の寄与はごくわずかである。19世紀の末になってヒトの病気に微生物が関与していることが見つかって伝染病学は有力な科学となり、飲料水の塩素消毒法が導入され、伝染病の拡がりをくいとめるための隔離法が生みだされた。このような改善には医師の意見も若干はとりいれられているが、彼らは技術を発明したわけではない。医療そのものー病人の家への医師の訪問、そして患者の病院への移送―などは19世紀全般、そして20世紀のはじめの30年を通して、病気の予防と治療のどちらにも、ほんのわずかしか寄与しなかった。もちろんそれ以前は医師が病気を治そうとして何かをすれば、必ずといってよいほど事態は悪い方へ向かった。彼らは患者から生命を奪うぎりぎりのところまで、そしてときにはその限度を越えて出血させた。彼らは血を抜きとるためにヒルを使い、刺激の強い軟膏を患部に塗りたくり、毒性が出るほどに大量の水銀を使って腹の中を空にした。すべては病める器官のうっ血をとり除くという名目のためだった。これは紀元2世紀のガレノスの空想の産物だったのである。

 ふりかえってみると、19世紀の中頃にサミュエル・ハーネマンがホメオパシー療法(同種療法)を導入したとき、これが驚嘆すべき成功をおさめたことには何の不思議もない。ホメオパシーは二つの考えかたからできている。そのどちらも科学的な根拠はまったくなく、ハーネマンの純粋の想像の産物だった。はじめの概念は彼の名づける「同類の法則」つまり「似たものは似たものを治す」というものである。もしある薬が、たとえば発熱とか嘔吐など、病気のもつ症状と似た症状をひきおこすとすると、その薬をその病気の治療に使うべきなのだった。しかし彼の成功を保証したのは二つめの考えかた、つまり薬は考えられないほど少量、一兆分の1ppmあるいはそれ以上にまで薄めて使うというものだった。実際上は、ホメオパシーは患者を安心させるというだけの、治療とはいえないしろものだったが、こうして多くの患者は当時の伝統的な医学の手から守られたのである。患者たちの気分がよくなり、回復の見通しがよくなったのは驚くにあたらない。

 ヒトの病気に対して何らかの意味で合理的な治療法が生まれたのはやっと20世紀初頭になってからのことであり、また感染症の大規模な治療と予防の合理的で強力な技術を手にすることができたのは、やっと今世紀の中頃になってからだった。抗生物質による治療法と同時に、そして多くはこれに依存しながら、外科手術も大きな変革を遂げた。それ以来、外科手術の技術はますます高度で強力なものとなってきた。感染をコントロール下におくこととともに、外科医は血液量や電解質のバランスを保つすべを身につけ、問心術、器官移植、微細な血管の修理、切断した四肢の置換、ガンの徹底的な切除など、かつて考えられもしなかったことが日常の、ありふれた仕事になってきた。

 さて、このような技術をぜんぶ梱包して、貧しい国々へ送ることができるだろうか? またそうすべきだろうか? それは役にたつだろうか、また今日使われている言葉にしたがえば、コストにひきあうだろうか? 私はそうは思わない。
 私の考えでは第三世界の社会の健康に必要とされているものは、現代医学が導入される前にアメリカやヨーロッパに実現した一般衛生の水準なのである。これが先に来ないかぎりは、私たちのもつ高度で高くつく技術を持ちこんでも何の役にもたたないだろう。
 若いうちに死ぬ人びとを抱える中央アメリカや南アメリカ、アフリカほぼ全土とアジアの大部分にとっての問題は別のところにある。彼らはほとんど確実に半分かそれ以上が幼いうちに死んでしまうという条件のなかで、子供たちを育てなければならず、その結果、できるだけ若いうちから、できるだけ多くの子供をつくることになる。死亡はだいたいが下痢によるもので、汚染された飲料水や劣悪な衛生状態が原因である。幼い子供たちの感染症が致命的なものとなるのを助長しているのは、不適当な摂食、そしてある点で幼い子供に対する食物の選択についての誤った情報だろう。感染症や栄養不良による幼児の死に加えて、熱帯や亜熱帯に住む人びとにとっての大きな健康上の問題は寄生虫病である。

 ここにわが国が役にたちうる、そして実際役にたちつつある一連の健康問題がある。私たちはたぶん、寄生虫病の予防と治療についての今日の方法を提供するうえで、ある程度のことができるかもしれない。しかし私はここでただちに言っておかなければならないだろう。これらの技術はどんなにうまくいってもほんのわずかな効果しかもたず、それが必要とされる地域にとり入れようとすればそれだけの人員を配置しなければならないというたいへんな問題を抱えることになる。さらに患者がこれをじっさいに受け入れるようにするためには、制度、文化、経済上のより大きな障害があるのだ。しかしそうではあっても、私たちは何かできることを、もっと試さなければならないだろう。
 
 私たちは費用のかかる、中産階級の、中高年に対する医療システムをアフリカ、そしてアジアの貧しい隣国にもちこもうとしてはならない。これらの国の人びとは私たちが使っているような、すでに高くつき、ますます高くなっているハイテク医療の費用を賄うことはできないし、それが人びとに求められているものでもない。現段階では、私たちのシステムは高齢の人びとに対して機会を確保するように設定されたものである。ところが彼らが望んでいるのは生きる機会そのものをより確実にすることなのだ。私たちが役立ちたいと思うならば、そしてそうあるべきなのだ・・・

 しかし私の最後の主張、そして私の最後の拠りどころは、対外政策としてはもっとも単純で、もっとも素朴で、おそらくもっとも説得力のないものかもしれない。私たちには負い目がある。私たちは人間の健康について、公正さや公平さといった以上の何かを保証する義務がある。私たちが人間であることをやめようとしないかぎりはほかに道はない。すべての男と女が兄弟であり姉妹であるというのは、移ろいやすい、文化に依存した概念ではないし、また私たちの心のなかで温かみや心地よさを感じさせるためにつくりあげたスローガンでもない。それは生物学的な至上命令なのである。   <完>

 

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