カウンター 読書日記 ルイス・トマスを読む(1)。
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ルイス・トマスを読む(1)。
 「・・・私たちには負い目がある。私たちは人間の健康について、公正さや公平さといった以上の何かを保証する義務がある。私たちが人間であることをやめようとしないかぎりはほかに道はない。すべての男と女が兄弟であり姉妹であるというのは、移ろいやすい、文化に依存した概念ではないし、また私たちの心のなかで温かみや心地よさを感じさせるためにつくりあげたスローガンでもない。それは生物学的な至上命令なのである。」
   

 ルイス・トマス、『人間というこわれやすい種』(晶文社1996.9.5)から、

 <8章・医学と公正さ>を紹介していく。

 松岡正剛「千夜千冊」も是非。
 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0326.html

 *************
 

 ●(8) 医学と公正さ

 人類という種には、いまほぼ45億という仲間がいる。今後50年もするうちにその数はほとんど確実に2倍になるだろう。そのなかで先進工業社会に住んでいる3分の1ほどが、私たちの言うまずまずの健康を享受し、考えられている正常な人間の寿命をほぼ全うして生きる。残る大多数の人類、貧困にあえぐ国々の国民は、そこまで生きられる機会は半分に満たない。早死にし、あるいは一生を惨めな状態で過ごし、いつも飢えと、運のよい残りの3分の1の人びとには知られていない数多くの病に脅かされる。

 この大ざっぱな数字が語りかけてくる、国際的にとるべき政策ははっきりしている。より多くの健康を享受している15億人は、ほかの30億人に対して、21世紀へ向けて何かできるのだろうか。そこには何らかの義務があることを前提としてうけ入れよう。
 
 まず第一に、それは道徳的な義務であるが、しかしそれは人間文化のなかにあるふつうの意味での道徳であるとともに、深い生物学的な動機に裏づけられたものでもある。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは深く、やみがたく社会的な種なのである。ほかの哺乳動物にくらべると肉体的に華奢で、大きく複雑な前頭葉をもつために情緒が不安定になりがちで、外敵にまったく無防備な長い子供時代を送るという競争上不利な条件を強いられながら、ここまで生きのびてこられたのは、私たちが社会的な生活に適応するよう遺伝的にプログラムされているからなのだ。私が群からまったく切り離された、孤独でひとりだけの人間を想像することができないのは、一生をひとり暮らしで押し通すシロアリやミツバチを考えられないのと同じことである。私をたがいに依存しあった共同社会に結びつけているのは言語であり、私たちはこれに対してこそ、小鳥が歌に対してそうであるように、ほとんど確実に、遺伝的にプログラムされているのである。
 
 人間がこれに長けているというつもりはないし、またこれまでのところうまくやってきたと言うつもりもない。もしうまくやってきていたなら、私たちは今日みられるほどの密度で、ここ数百年来みられるように、破局の危険を迎えるまで計数的に繁殖し、地上に溢れかえるようなことにはならなかったであろう。ある家族の成員が一家のほかの成員にとって文字通りに頭にくるような事態をうけ入れつつ、私たちは家族生活については結構うまくやっている。私たちはそれぞれ親しい友人の輪をもち、彼らに信頼され、愛されすらしている。これらの友はまたそれぞれ別の友人の輪をもっている。こうして輪はつきつぎに広がりすべての人をとりこむことになると考えられるかもしれない。ところがそうはならない。私たちは長いあいだ、種族を単位に生きのびる方法を身につけ、種族どうし(種族間)では争う傾向があった。国家というものの発明によって私たちは社会的な関係として生きるためのすべての規則を弱体化し、自然のなかの人間の立場を危ういものにしはじめた。社会的生物として、大きくなる蟻塚のように均一な単位として発展するかわりに、コロニーをつくって別れ、たがいにすべてのコロニーと敵対するようになる道を選んだ。ある集団は有利な地理的条件とがんばりによって富と力を蓄える一方、ほかの集団は貧しく力もない。こうして現在の問題がある。人類はただ一つの集団、一つの種なのである。私たちの現在のありかたはこれにそぐわないだろう。

 人類のために私が考えられる言いわけがひとつだけある。私たちはまだ種の進化のゲームに参加して間もなく、まだ勉強が足りないということだ。文化という面からみた人間の進化は、生物学的な進化に何らかのかたちでなぞらえることができるだろうと考えるのは大きな間違いである。人間は、古生物学者や地質学者に用いられているような言葉で自分たちの生活習慣を語ることができるほどには、この地上に長く存在していない。地球科学者によって扱われる長い時間の流れのなかでは、社会的な人間の出現と進化はほんのわずか前にはじまったばかりである。私たちは新品同様なのだ。人間か幼い種であると言ってよいかどうかすら問題だろう。地球の年齢は40億年になり、種の進化はそれぞれ数百万年という単位が記録されているのだ。

 私たちはヒトという動物の進化の過程で、子供時代を通過しているのかもしれない。種として新たに登場したばかりで、木から降りてきて自分たちの指をしゃぶりながら、ほかのすべての動物から区別する一つの能力を磨きはじめたばかりの存在であることを考えれば、失敗ばかりしているのは驚くにはあたらないのかもしれない。これから先、私たちが現代の文化と呼ぶものが、ヒトの成熟の道程における、原始的な思考のごく初期段階にあったものだということになるかもしれない。つまづきやすい政治、国家の破滅的な愚行、見通しのまったくきかない先行き、などと私たちの目に映るものも、たんに未熟さゆえの欠陥、あるいは若さゆえの怠慢であるのかもしれない。誰かが言っているように、私たちはいまの段階で絶滅するのかもしれず、したがって最後の局面を私たちは生きているのかもしれない。しかしもしそうであるとしても、それは自分の手で、それもたぶん核兵器で絶滅することになるのだろう。もし生きのびることができるならば、ある日、種として自分たちが到達しえた姿に驚きの目を瞠るようなときがくるのではないかと私は思う。私たちのあらゆる愚行を、幼虫、さらには幼生ゆえのものとみれば、私たち人類はすばらしい、将来性のある生命のかたちなのだ。私はこの見かたに与(くみ)する。

 もし私たちが、目前のさしせまった不公平という問題の解決に取り組もうとしていると考えることができるならば、私は人間の先行きの展望にもっと希望が持て、未来に確信をもつことができるだろう。ある人びとは他の人びとより頭がよく、活動的であり、したがって当然よい暮らしができるようになるという理屈は一面としてなりたつ。しかし、人口の3分の2が、そしてその3分の2のなかのすべての子供が、人間らしい暮らしを送る機会がないいっぽうで、よい暮らしをしている私たちがそれに目をそむけるということが人間社会にとって自然で安定なありかたといえるかというのはまた別の問題である。 (続く)

 

 
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