カウンター 読書日記 『貧困襲来』(5)
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『貧困襲来』(5)
●「地域福祉の北九州方式」-餓死は誰の責任?へ進む前に、

 北九州の餓死事件についての章、「5章・崖っぷちの生活保護」を紹介 します。
 *************

 第5章・ 崖っぷちの生活保護
 2.機能不全の生活保護
 
 
 人が〈貧困〉に陥ったとき、それに「今ここ」で対応できる唯一の包括的な生活保障が生活保護制度だ。しかし残念ながら、実際にはそのように運用されていない。五重の排除が〈貧困〉の背景にあると書いた。その中には公的福祉からの排除が含まれている。公的福祉(生活保護)がきちんと機能していれば、多くの〈貧困〉状態は解消される可能性がある。しかし実際には、五重の排除にもとづく〈貧困〉が蔓延している。なぜ機能していないのか。

●「水際作戦」
 
どうして生活保護が受けられないのか。これはよく不思議がられる。「いろいろ難しいことがあるって聞くけど、どうしてそんなに難しいの?」と。役所に申請し、審査されて決定される。どこにでもある手続きだ。それのどこが難しいのかイメージできない。正常な感覚だ。
 先に書いたように、生活に困って福祉事務所に訪れる人たちも、私たちのところに訪れる人同様「生活に困っているので何とかならないか」と言うだろう。そのとき福祉事務所は「どうにもなりませんね」と答える。そうか、自分には使えないのか、と思って帰る。そのとき記録上は「相談のみ」、★この人に生活保護申請の意思はそもそもなかった、となる。福祉事務所まで来て「生活に困っているので何とかならないか」と言うのだから、当然生活保護を受けたくて来たのだろうと考えるのは、一般の感覚であって、福祉事務所の感覚ではない。
 「何とかしてもらいたい」という言葉は「生活保護の申請をしたい」という言葉とは違うのでそれは申請の意思表示ではない、と意図的にすりかえられる。福祉事務所では、ズバリ「生活保護の申請をします」と言わなければ、申請の意思表示とは認めない。
 
★現実はさらに苛酷だ。北九州市では、06年5月に56歳の男性が餓死状態で発見された。この男性は、二度、福祉事務所に対して「生活保護の申請をしたい」と告げていた。福祉事務所の記録(面接記録票)にも「生活保護を申清したい旨の発言があった」と書いてある。しかし「次男に面倒見てもらいなさいよ」「次男がダメなら長男に面倒見てもらいなさいよ」と“説得”されて二度とも追い返された。福祉事務所は、申請書を出さずに帰った以上、その人には申請の意思はなかったと言い張っている。末吉興一市長(当時)も、「福祉事務所の対応は適切だった」と話している。申請したいという意思の確認がギリギリまで狭められている。こうなると、申請の意思をどうしたら表現できるか、という技術的なことを知っていないと申請できない、ということになる。
 
北九州ほど極端でなくても、同じようなことは全国の福祉事務所で毎日起こっている。「生活保護の申請をしたい」と言って、それを形に示し(「生活保護申請書」という文書をつくって提出する)、何を言われようと徹回しない。その知識と覚悟とがんばりのある人だけが生活保護の申請をできる。「本当に困っているのか」「本当に生きたいのか」を徹底的にふるいにかけられるのが福祉事務所だ。これが「水際作戦」と呼ばれる手法である。岸辺にかけた手を上から踏みつけられる。さあできるもんなら上がってみろ。痛くて手を放すようなら、もともと岸に上がる気などなかった、ということだ。
 福祉事務所に相談に行くのは、よほどのことだ。誰だって「お上の世話」になどなりたくない。自分でいろいろやってみて、頼れる人には当たりつくして、それでもどうにもならなかったとき「もうお手上げ」と言って訪れるのが福祉事務所だ。しかし、傷つき、疲れ果ててたどり着いた岸辺で待っていたのは「疲れたね。大変だったね」と言って抱き上げてくれる人ではなく、「甘いんじゃねーの?」と言って、上げた顔を再び水に押しつけてくる力だった。普通はまいる。まったく密入国者扱いだ。もうこのまま、死ぬなら死ぬでいいか、という気分になる。
 信じがたいかもしれないが、事実だ。福祉事務所を訪れた全員がそういう目にあっている、とは思わない。親切に対応してもらってよかった、という人もたくさんいる。でもこういう目にあっている人がいることもたしかだ。私たちのところには、しばしばそういう人が相談にやってくる。

3.歴史的経緯

●ケースワーカーの苦悩

 どうしてこういうことになってしまうのか。いくつか原因がある。
 まずは実際に相談を受ける相談員だ。この人は、なぜ相談者を追い返すのか。別に生活保護を出しても自分の懐が痛むわけではない。なのにどうして「困ってる」と頼ってきている人を追い返すのか。鬼か? もちろんそんなわけはない。私も何人か個人的に知っているが、ごく普通の人たちだ。普通の人たちがなぜこういう対応をするのか。
 最大の原因としては「報われない」ことが大きいと聞く。福祉事務所の職員は、生活保護を受けている人の対応をする。中には難しい問題を抱えている人もいる。そういう人たちの対応を毎日毎日する。いやなこともある。何度言っても聞いてくれない、ということもある。そのときに、粘り強く本人と付き合い、気持ちを聞いてもらい、対応する。それが生活保護法が目指している「自立助長」だが、それはある程度好きでなければできない。忍耐もいるし「福祉的な精神」も必要だ。
 ★しかし、福祉事務所に望んで来た職員は少ない。この前まで水道を敷いていた人が(例えば、水道局)人事異動でやって来る。当然、個別対応の中で本人の力を引き出し、自立に向けたサポートを行う「ケースワーク」とは無縁の人もいる。好きで来たわけではないのに、来たとたんにたくさんの生活保護受給者の担当にさせられて、難しい問題を引き受けさせられる。何度も困難にぶつかっているうちに、「なんてこの人たちはこんなに物わかりが悪いのか」「受給者としての義務を果さないくせに、権利ばかり主張してきやがる」「おれはこんなにがんばっているのに、誰も褒めてくれない、助けてくれない」という気分になる。「なんてあんなヤツが保護を受けているんだ」といった苦情も舞い込むし、「あんたが担当なんだから、なんとかしろよ。それが仕事だろ」と責められる。しまいには気分がくさってきて、訪れる人たちに丁寧に接することができなくなる。また、何かにつけて疑いの目を向けるようになる。一言で言えば、自分の本来の仕事を忘れてしまう。
 私は以前、大阪府内で行われたケースワーカーの意識調査の結果を聞いたことがある。そのアンケートでは「今の仕事にやりがいを感じたことがない」と答えた人が全体の四割を超えていた。「感じたことがない」というのは、一度もないということだ。毎日の仕事で一度もやりがいを感じられない職場で、いい仕事ができるわけがない。
 背景には、職員の不足と事務量の増大がある。1995年に底をついた生活保護の受給者数は、その後広がる〈貧困〉を背景に急増し、今では150万人に達しようとしている。個々の職員が受け持つ件数も増えている。しかし、受給者が増える割に、職員数は増やしてもらえない。厚生労働省は、一人あたりのケースワーカーが持つ件数の上限を「市部80件、郡部65件」と決めているが、実際には100件、120件、多いところでは140件、150件にもなる。
 こうなれば、まともなケースワークなどできない。加えて、事務量は増えている。書類をつくるだけで膨大な時間が割かれ、担当する人たちとゆっくり付き合う時間は残らない。人件費削減の大合唱の中で、どこも人手に余裕がなくなっているが、それは福祉事務所も変わらない。じっくり考えたり、検討する時間を与えられないまま次から次へと仕事をこなすことを求められ、余裕のない日々を送ることになる。
 こういう状態で仕事していると、「よかったね」と自分が担当している相手と喜び合える場面が減っていく。やる気が起きず、仕事がおざなりになる。そういう職場の雰囲気が、相談しに行った人にはね返ってくる。その悪循環の結果が「水際作戦」だ。

●代理戦争

 「公務員なんて特権階級なんだから、それくらいつらい目にあって当然だ」と言う人もいるかもしれない。たしかに、大変だと言ってもそれなりの給料はもらっているし、手当てもついているし、ハッキリ言って相談に来た人たちとはまったく異なる環境にあるわけだから、相談者に八つ当たりされたのではたまらない。しかしそうした状況を改善しないといけないことにも変わりはない。相談者が大変だから、職員はもっと大変であたり前だ、ではなくて、相談者も職員も待遇が改善されるようにするべきだ。
 もちろん、「水際作戦」は許されない。私も、同行してケンカすることがある。ただ、やっていて空しい。★末端で代理戦争させられているような気分になるからだ。
 本当は、職員と相談者がカウンター越しに睨み合う不毛な状態を抜け出して、相互に信頼し合える条件をつくっていくことが必要だ。しかしそれは「お互い人間なんだから、疑心暗鬼にならずに誠意をもって話せば、わかり合えますよ」などというノンキなことではない。やはり、十分な職員を配置できるだけの人件費を出して、きちんと生活保障に力を入れさせる必要がある。しかし現実はまったく逆、社会保障切下げに向かっている。


●足の引っ張り合いに便乗する連中

この流れが生活保護の場面ではっきりと形を取ってあらわれたのは2003年、生活保護の0.9%の切下げだった。★注目すべきは、このとき同時に国民年金額が0.9%切り下げられたことだ。
 生活保護費は国民年金に比べて高すぎる、という意見が根強くある。新聞記者によく聞く話だが、生活保護制度を受けている人たちの側に立った記事を書くと、年金だけで暮らしている人が「そんなの甘えている!」と怒りの電話をかけてくるそうだ。自分はもっと少ない金額で切りつめて生活しているのに、そんなにもらっておいて少ないとは何事だ、ということらしい。たしかに国民年金は満額でも月額6万6000円。都市部では生活保護の生活費より少ないし、医療費も国民健康保険で自己負担がある。生活保護受給者よりも所得が少ないことは間違いない。がんばって働いて、こつこつと年金を払ってきた見返りがこれだけなのに、国民年金料を支払ってこなかった人ももらえる生活保護費が高いのは許せない、ということだ。
 しかし、冷静に考えればすぐわかることだが、苦しいのは自分の生活である以上、生活保護費が下がったところで自分の暮らしは楽にならない。しかも03年の切下げが物語っているように、生活保護費と国民年金は事実上連動している。厚生労働省は、全然関係ないと言っているが、そうであれば同時に同じ比率で下がるわけがない。ということは、生活保護費が下がっても自分の暮らしが楽にならないどころか、それを理由に今度は国民年金額を下げられる可能性だってある。ほとんどタコが自分の足を食うような状態だ。
 根本にあるのは、少ない年金で暮らすほかない苦しさに対する不満だろう。苦しい中耐えているストレスが、生活保護受給者に向かって出る。でも、本当はそのストレスは、もっと暮らしを楽にしろ、年金を引き上げろ、と国に向かうべきではないか。年金だけで暮らせないのなら、その人自身が生活保護を受ければいい。年金だけでは足りない部分を補うのが生活保護の役割で、年金と生活保護を両方受け取っている人は実はたくさんいる。しかし、必ずしも生活保護を活用する方向には向かわず、生活保護を引きずり下ろす方向に向かってしまう。そのねじれが痛々しい。
 ★本当に許せないのは、そういう声を生活保護の切下げに利用する連中がいることだ。連中は「この不公平感をなんとかしなきゃいけない」と言う。しかし、年金を引き上げることは考えていない。考えているのは生活保護費を引き下げることだけだ。そうなれば、年金との「格差」は見かけ上、少なくなる。文句を言っていた人は「ざまあみろ」と喜ぶかもしれない。しかし実態は、生活保護を受けていた人たちの暮らしがさらに苦しくなって、〈貧困〉がよりいっそう増えるだけだ。「格差」がなくなったとしても〈貧困〉が増えたのでは、何一つめでたいことなんてない。しかも「格差」は年金生活者と生活保護受給者の間で少し縮むだけで、上層との格差はもっと広がっていく。下で足を引っ張り合っていても、当の本人は幸せにはなれない。
   (続く)
 

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