カウンター 読書日記 『貧困襲来』(3)
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『貧困襲来』(3)
 ●私たちにできる10のこと 5~6。

 5。計算する 
 

 日本における〈貧困〉の公式定義は「最低生活費(生活保護基準)以下で暮らしていること」だ。では最低生活費とはいくらなのか。多くの人は、それを知らない。
 〈貧困〉が見えなくされ、隠されているのは、そこに大きな原因がある。〈貧困〉を議論しようにもいったいどこから〈貧困〉かを知らない、何が〈貧困〉か、わからないからだ
前にも書いたが、生活保護の基準額は、生活保護を受けている人だけに影響する数字ではなく、私たちの生活にさまざまに影響する。これについては、03年に生活保護基準が切り下げられたときの朝日新聞記事が参考になる。
 *******
 ●多岐に渡って福祉対策の指標
 最低生活費の見通しの影響を受けるのは、生活保護の受給世帯だけではない。医療、教育、住宅など暮らしにかかわる様々な分野での低所得者対策の指標になっているからだ。
 市町村の国民健康保険には約4500万人が加入する。各自治体は低所得者に保険料などの減免措置をとっているが、対象者を決める際、「収入月額が生活保護基準額の120%未満であること」といったように、最低生活費を指標にしているところは少なくない。
 公営住宅の家賃減免をめぐっても、国土交通省は「おおむね生活保護基準程度以下の収入」を目安とする考えを明示。経済的に困っている児童や生徒に学用品などを支給する就学援助制度の運用でも、所得の上限を同様に「生活保護基準額の1.3倍以内」などと定めている市町村が目立つ。
 このほか、使用者が労働者に支払う報酬の最低額を定める「最低賃金」(都内の場合、時給708円)や、引き下げの是非が論議になった課税最低限(夫婦と子ども二人の世帯で年325万円、04年以降)の算定にあたっても、生活保護基準は比較の対象になっている。
(朝日新聞03年10月15日)
 ********

 「生活保護なんて関係ねえや」と思っていると、いつの間にか自分の生活に関わる数字(金額)が影響を受けて切り下げられている、といったことがありえる。
 関係あるから大事、というだけではない。みんなが最低生活費(生活保護基準)を知らない社会では、〈貧困〉の議論は起きようがない。それこそが意図されている。最低生活費をみんなが知って、誰もが誰に対してもアドバイスできる社会。そんな社会が実現したら困る人たちがいる。
★〈貧困〉を隠したままにしておきたい、見えないままにしておきたい人たちだ。
 ★自治体のホームページを見てみるといい。生活保護のことは、たいてい一番わかりにくいところに置いてあり、かつ誤解を招きやすい。私が住んでいる所沢市のホームページを見てみると、生活保護のことは、トップページの項目に出ていないだけでなく、その次のサブ項目にも出てこない。「子ども、高齢者、障害者のために」をクリックして、その中に出てくるサブ項目の一番下「福祉(各種助成・補助)」をクリックして、ようやくたどり着ける。生活保護は「子ども、高齢者、障害者」のためだけの施策ではないし、助成や補助でもないのだが、あたかも働いている健常者には関係ないかのような分類をしている。しかも生活保護の項目を見ても、くわしいことは何一つ書いていない。これでは、人々が生活保護について知らなくてあたり前だ。
 〈貧困〉について知りたい、考えたいと思ったら、まずは自分の家族(世帯)の最低生活費(生活保護基準)を知ろう。国が私たちに何を保障しているのか、私たちは国にどれくらいの生活費を要求できるのか、憲法25条の生存権とはどこまでの暮らしを指すのか、それは非常に身近で基本的な権利だからだ。
 最低生活費は計算の仕方が少々複雑なので、慣れていないとすぐには計算できない。そこで、この本には最低生活費を自動計算できるエクセルソフトをつけた。住んでいる地域や家族(世帯)の人数・年齢、小中学校に通っている子ども・障害者がいるかどうかなどを打ち込んでいくと、その家族の最低生活費が計算される。家族(世帯)の収入を打ち込む欄もあって、生活保護を受けられるかどうかの判定もできてしまうスグレモノだ。これは、兵庫県弁護士会の阪田健夫弁護士がつくったもので、阪田氏のご好意により本書で使わせてもらっている。ぜひとも活用していただきたい。
 
  
 6。ぼやく

 
 つい先日、喫茶店でこの原稿を書いていたら、隣に座った20代後半とおぼしき女性二人がこんな会話をしていた。
A 「私なんか年収三〇〇万いってないんじゃないかな?」
B 「そんな少ないわけないじゃん」
A  「月収が23万よ。衝撃的だよ。ボーナスだって3.5ヶ月分だからさ。そんなもんだよ」
 (二人で源泉徴収票を見比べ)
A 「住民税が4倍だよ、4倍」
B 「ひどいよね、この国」
A 「ひどいよね、何に使われてるかわからないよね」
A 「介護保険8060円、厚生年金が1万8千円だよ」
B 「厚生年て何? 厚生年金基金? なにこれ?」
A 「なんだろね?」
B 「雇用保険て何?」
A (笑)
B 「3500円てさ、1年にすれば4万弱くらいだよね。私4年勤めたからさ、16万だよ。やってられないよ」

「ひどいよね、この国」・・・
こんなぼやきが、日本中で繰り広げられているはずだ。しかし彼女たちの会話はその後、知り合いの噂話に流れていった。この不満、このストレスを形にすること、それが難しい。現状に不満がある、社会がおかしな方向に進んでいる、その感覚はおそらく多くの人が共有している。しかし、では何かの集会に参加したり、デモに参加するかといえば、それには抵抗がある。「とてもじゃないけど、そこまでやってられないよ」というのが正直なところだろう。選挙で意思表示する、というやり方もあるが、それもどうも・・。投票して何かが変わるとは思えない。そもそも首相が変わって、政権が変わって、何か変わったことがあったか?
 
 この間、最大の抵抗は撤退することだった。飲み会などで勤め先のひどい話になると、最後に出てくるタンカは、決まって「辞めてやる!」というものだ。今、職場でできる最大の抵抗は、多くの人にとって「辞めてやる!」ことである。それ以上の抵抗(賃上げや待遇改善)は、抵抗の現実的な選択肢の中に入っていない。
 学校や社会に対しても、状況は同じだ。学校でひどいイジメがある。そのときにできる抵抗は、学校を辞めることだ。「行かなくてもいいよ」と理解ある人たちは言い、そして学校に行かなくても集まれるフリースクールをつくった。学校を含む社会全体に抵抗するには★「ひきこもる」という形を取った。ひきこもりは、生きづらい社会から身を守るための重要な抵抗形態だ。そして投票。政治に対する不信があるとき、それをあらわすもっとも一般的な方法は、反対票を投じることではなく、棄権することだった。
 「がんばりすぎるな。逃げちゃえばいい」というのが、社会のさまざまな分野でささやかれ、現代における抵抗のスローガンとなっていた。「好きでやっている」といわれるフリーターは、低所得と不安定な雇用形態が好きなのではない。会社の持っている、人を人とも思わないような使い捨ての体質、体育会のような厳しい上下関係、それらに対する抵抗として、働きながらも会社にしばられないことを「よりマシ」としているにすぎない。
 
 1人で会社に立ち向かって、もし雇用が守られ、待遇が改善されたとしても、待ち受けているのは、地下の倉庫で一日中書類の整理をさせられるようなイヤガラセだけ。膨大な労力を割いて何かを勝ち取ったとしても、それによる達成感は一時、イヤガラセは一生だ。「それでもがんばれ」とは誰も言えない。
 年金を毎月20万近く受け取っていた高齢の野宿者が、ある日モグリの宿泊所に連れて行かれ、通帳を取り上げられて、半年間「監禁」に近い状態におかれていた。彼は、ある日の明け方、見張りがトイレに行っているすきをみはからって、裸足のまま逃げ出してきた。監禁されていた住所
も連絡先もわかっている。訴えよう、と誘ってみた。応援してくれる法律家はたくさんいる。しかし、彼は拒否した。「そんなことしたら、相手に何されるかわからない」というのが最大の理由だ。監禁中、彼は一度★警察にもかけ込んでいた。しかし警察は、彼の言うことより宿泊所の経営者の言うことを信用した。逃げようとしてリンチを受けた同居人の姿を見たこともある。無事に逃げてこれたんだ。奪われた年金さえあきらめれば、またモトの生活仁戻れる・・・。彼にとってそれ以上は、現実的な選択肢とはなりえなかった。
 
 多くの人たちが「抵抗としての撤退」を選んでいく中で、会社・学校・政治・社会の中枢に残った連中はどうしたか?「お願いだから、戻ってきてください。もっと居心地のいい、意味を見出せる場所にしますから」と白旗を揚げただろうか? 残念ながら、違った。連中は見事に状況に適応した。投票率が50%程度まで落ち込んでも、彼らはあわてるどころか、残る25%ちょっとで「過半数」を取って、自分たちの都合のいいように好き放題に法律を変えていった。学校や会社から撤退していった人たちを安くこき使うための「法整備」を進めていった。撤退という抵抗形態を選んだら最後、食うに食えない〈貧困〉というところまで追い込んでいって、その人たちを「貧困ビジネス」に食わせた。
みんなが撤退するから社会保障制度も崩壊しそうだと不安を煽り立てて、一方では負担増を強い、他方で「支え合い」を強いた。学校や会社に残った人たちに対しては、「ああはなりたくないだろう?」と追い込まれた人たちの姿をダシに使い、どんな長時間労働にも、サービス残業にも、文句を言えないようにした。あげくの果ては「優遇されすぎている」と言い出して、その人たちの「安定」も切り崩そうとしている。
 
 「辞めてやる!」は、多くの人にとって最大の抵抗だったと書いたが、今はそれさえも危うくなっている。たとえば、店長から新人アルバイトまで全員が非正規という職場の中で、少ない人数で、過剰な労働をこなしている。職場ではある意味フラットな関係ができている。労働条件はひどいが、★大変なのは自分だけではない。それでもがんばっている店長をみんなで支えようとやってきた。そんな中、いくらキツくて低賃金だとはいえ、自分が辞めれば他の同僚たちに迷惑がかかる。みんないい人たちで、みんなキツイ中がんばっているのに、自分だけ逃げ出していいのか。ましてここを辞めたとして、ここよりも条件のいい職場に就職できるという見込みはない。この職場はひどい。ひどいのは百も承知だが、でも辞めるに辞められない・・・。北九州市における地域での「強いられた支え合い」同様、多くの職場でも同僚間の「強いられた支え合い」が構築されている。
 
 残れば過労死、退けば〈貧困〉といった★究極の二者択一しかないような状況が生まれている。しかも、ともに過労死しそうな者同士、〈貧困〉にある者同士に生まれる連帯感が存在し、それが巧妙に利用され、活用されている。同僚たちが、その連帯感を維持したままで、丸ごと「なんとかしろ!」と声を上げる方向に転換できるなら、それがベストだろう。しかし、そう簡単にはいかない。そうした対決型の発想は、長らく辺境に押しやられてきたからだ。対決型の発想は、一言で言って、ウケない。特殊なものと見られる。多くの人が引いていってしまう。会社と対決する前に、自分が仲間から孤立してしまう。本当の敵と闘う前に、自分自身が撃破されてしまう。
 
 過労死か〈貧困〉か。究極の選択肢の中で、どちらの極にも振れ切らずになんとか生き抜いていくこと。上手に立ち回ること。しかし、それだけが私たちの生の意味だとしたら、それはあまりにも過酷ではないか?
 まず、ぼやいてみよう。みんな不満がある。それは間違いない。ただ、そういう不満を目にする前に、不満を飲み込ませてしまう装置(自己責任論)が働いているから、「そんな甘えたこと言ってんじゃねーよ」とか「おれは今のままで十分満足だよ。別に一生ここで働こうなんて思ってないし」といった反応になってしまうだけだ。しかし、そういう人も1人になったときにふと考えるものだ、と信じよう。「そうだよなあ。いつまでもこのままじゃ、やってらんないよなあ」と。とりあえず、それが一つ。
  (続く)

 

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