カウンター 読書日記 『貧困襲来』(2)
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『貧困襲来』(2)
★最終章=第7章:私たちにできる10のこと。

 *************

 こうした状態をなんとかするために、では私たちに何かできるのか。最後に10個の提案をして、この本の結びとする。

1.自己責任論とオサラバする。

 だまされたと思って、自己責任論(自分のせいだからしかたがないという考え方)ではない考え方をしてみませんか?
 たとえば、あなたのいつも使う駅に野宿の人が寝ているとする。何人かで群れて酒を飲んでいるかもしれない。「いい気なもんだな。まったく迷惑な」と感じるかもしれないが、それは「好きで」あるいは「自堕落で」野宿している、という自己責任論を背景に持っている。そこを一度、だまされたと思って別の考え方をしてみる。野宿は、家もなく、仕事もなく、お金もない、あらゆる“溜め”を奪われた〈貧困〉状態だ。ではそれに対して行政と社会は何をしてきたか、と考えてみる。時間があれば少し調べてみる。これまでとは違った考え方があって、それなりの理屈もあることが見えてくるはずだ。
 ネットカフェに寝泊りしている若者をテレビで見たとする。「かわいそうに。あんな暮らしじゃ大変だろうな。でも、ああなる前に何か方法があったんじゃないかな?一と感じるかもしれない
が、その時あなたは「それをやらなかったからしかたない」という自己責任論を結論として持っている。そこで終わらないで、考え直してみる。
ひょっとして「貧困ビジネス」ネットにからめ取られて、身動き取れなくなっているのではないか、と。政府はその人たちに対して何かをやったか、政治の責任はないのか、と。
 障害者の人たちが推進し、広めてきた「バリアフリー」という考え方がある。ときどき誤解されているが、あれは「障害者がかわいそうだから、駅にエレベーターをつくってあげましょう」ということではない。障害者が安心して街を出歩けない社会は、不自由な社会だ。障害を持ち不自由になっているのは、障害者自身ではなく社会の側だ、という考え方にもとづいている。駅にエレベーターを設置したり、歩道の段差をなくしたり、点字板を敷きつめるのは、社会が自らの不自由さから解放されていくために必要だからだ。
 〈貧困〉に関して、私たちもこの考え方でいきたい。貧困〉は本人たちの努力が足りなかった、実力がなかった、運が悪かった、という問題ではなく、社会の側の努力の足りなさ、実力(社会力・市民力・政治力)のなさ、を物語っている。それは社会の側の責任を、何よりも政治の責任を問うている。
 〈貧困〉は自己責任論では消せない。自己責任論とオサラバしよう。〈貧困〉に自己責任論など寄せつけてはいけない。まずはそこから始めたい。

2.自分を排除しない。

他人に自己責任論を使わないのと同様に、自分自身も自己責任論とオサラバしよう。「自分は悪くない」と考えよう。そんなことを言うと、どこかの自己啓発セミナーみたいに聞こえるかもしれないし、すぐに「そんなぬるいこと言ってんじゃねーよ」と言われそうだ。しかし私は本気だ。特に現在うまくいっていない人には、とにかく「自分は悪くない」と100回唱えることをお勧めしたい。
 〈貧困〉の背景には五重の排除があり、その中の一つは「自分自身からの排除」だと言った。この理屈で言うと、〈貧困〉であえいでいる人はみんな自分を大切に思えない、自分で自分の責任と思っている人だ、ということになる。それは本当はおかしい。〈貧困〉は、本人の責任じゃない。誰かが〈貧困〉だとしたら、それを解消する責任は、政治と社会にある。だから〈貧困〉にある人こそ、真っ先に「なんとかしろ!」と声を上げていいはずだ。
 ところが自己責任論が世の中に浸透しているせいで、当の本人がなかなか「なんとかしろ!」と言えないし、また言う気力も残ってないという状態に追い込まれている。不当に不利益をこうむっている当の本人(当事者)から声が上がらないというのは、いちばん不幸な事態だ。〈貧困〉について何かを決めるにしても、当事者抜きで決められてしまうからだ。当事者運動の強い伝統を築きあげてきた障害者運動には「私たち抜きで私たちのことを決めるな」というスローガンがある。これこそ真っ当だ。
 〈貧困〉の背景に「自分自身からの排除」なんてありませんでした、とできることなら言いたい。そのためには、自分自身が自己責任論と手を切ることが必要だ。『「ニート」って言うな!』(本多由紀他、光文社新書、2006年)という胸のすくようなタイトルの本がある。私たちもそれでいきたい。自己責任って言うな! おまえの責任だろって言うな! 自分が悪いって言うな!

3。疑ってみる

 自己責任論と手を切れば、今まで目にしながら見えなかった〈貧困〉が見えてくる。いろいろなところに〈貧困〉の影がちらつくことに気づきはじめる。
 「ホームレス」、多重債務、自己破産、給食費滞納、児童虐待、「ニート」、生活困窮フリーター、日雇い派遣、自殺、犯罪・・・あらゆるものの陰に〈貧困〉が潜んでいる。ニュース報道に接したとき、友人・知人から相談を持ちかけられたとき、表にあらわれたその問題だけで完結させないで、「それは〈貧困〉原因ではないのか?」と考えてみる。これは一つの視点だ。原因はほかにあるかもしれない。さかんに言われている「モラルの低下」が原因だったということだって、たまにはあるかもしれない。しかし、新聞やテレビがたれ流す、差し出された答えとは違う答えがあるかもしれない、と疑ってみる。
 ただ「疑ってみる」と言っだけだと漠然としすぎているから、具体的に「これは〈貧困〉原因じゃないのか?」と疑ってみる。そうすると、ただ「しっかりしろよ」というだけではすまない本人の“溜め”の小ささが見えてくる。加害者が被害者であるような入り組んだ構造が見えてくる。どういう労働条件がそこに追い込んでいるのか、どういう政策がその労働条件をもたらしたのか、公的福祉は役割を果たしたのか、「貧困ビジネス」ネットに引っかかってしまった姿、などが見えてくる。ツルツルッと芋づる式に見えてくる。
 気をつけて見はじめれば〈貧困〉はいろんなところに見えてくる。〈貧困〉がどこにでもあるのは残念なことだが、事実だからしかたがない。私たちが見なくても〈貧困〉はなくならない。むしろ広がっていく。見なければ気づかず、気づかなければ社会の中に歯止めはつくられない。

4。調べる、相談する

 見るだけなら簡単と思うかもしれないが、見てしまうと責任を感じる。居心地が悪くなる。「どうしたらいいか?」という問いが出てきてしまう。自分自身の〈貧困〉に気づいたときも同じ。「じゃあこれをどうするか?」という問いにぶち当たる。それは気持ちのいいものではない。自分がその解決法を持っていないときは、とりわけ居心地が悪くなる。不安に襲われる。
 〈貧困〉には人間関係の〈貧困〉含まれている。〈貧困〉の状態に陥ったときには、すでに相談できる人を失っている場合が少なくない。社会的にも同様だ。〈貧困〉の問題に対応する団体・機関は少ない。いわゆる「社会資源」がほとんどない。だから「貧困ビジネス」がはびこる。
 少ないながらも〈貧困〉問題に対応している団体はある。しかし、人材も資金も不十分なところが多く、社会的にも十分アピールできない。テレビや新聞には出ないし、電車の中吊り広告で見ることもない。ホームページだって、そんなにヒットしない。
 たとえ〈貧困〉を見つけても、自分ひとりで抱えないといけないのだとしたら、正直重たい。向き合えない。結局見過ごす。
 だから、多少のノウハウや相談できる場所を知っておくことは必要だ。友達が「仕事を辞めたい」と話している。聞いてみたら、ひどい話だ。「それってひどくない?」と言う。それからどうする?「ひどいよね!」「そうだよね!」で終わるか、「○○ってところがあるから、ちょっと相談してみたら?」あるいは「それって××ができるはずだよ」とつなげていけるか。そこに、小さいが大きな違いがある。そういう情報を知っている人は少ないからだ。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、テレビを見て、メールチェックして、ネットサーフィンして、寝る。このサイクルの中ではなかなかこの手の情報に接することができない。一歩だけでいいが、一歩だけは踏み込む必要がある。そしてわからないことがあれば、そうした団体に相談してみればいい。
    (続く)。
 

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