カウンター 読書日記 『オールニートニッポン』(10)
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『オールニートニッポン』(10)
第4章 フリーターの希望は”戦争”か 

 ●「愛国心」を利用する 


赤木: その辺でおれが「愛国心」を利用したいと思うのは、つまり、日本人に対する意識ですよね。同じ日本人だから大切にしようということを、ひょっとしたら愛国心で導けるんじゃないかなと思うわけですよ。
雨宮: そう、そうなんですよ。同じ日本人の若者がこれだけひどい目に遭っているのに、「愛国心」と言っている人たちが、何で誰も助けてくれなかったのか。赤木さんの左への怒りはわかるんですけど、そう思うと右への怒りもないですか。
赤木: ありますよ。結局やっていないですからね。「愛国心だ」と言う人も、「じゃあ、同じ日本人の若者だから助けよう」という話はまったくしていなくて。ただ、どうなんです?
そこは、「左よりは喚起しやすいのかな」という気はしないでもないですよね。
杉田: 赤木さんは、はっきりいって、左も右も信用していませんよね。『論座』とかはスタンス的に、古い左翼、いわゆる新左翼の人たちは今の若者の生活や現状を捉えていない、だから新しく「グッとくる左翼」が必要だ、という言い方をするわけです。ただ、赤木さんは旧来の共産党系や新左翼系を批判するんだけれども、じゃあ右を信用しているのかというと、そうでもない。強いて言えば、左よりは右のほうが少しはましだ、自分にとって役立つ、という程度でしかない。さらにいえば赤木さんのことを持ち上げる「グッとくる左翼」さえ、赤木さんは信じていないように見える。そのニヒリズムというか、信用を一切しないという感覚は、赤木さんの中で一貫しているんじゃないかな。
 いろいろ反応があった中で、「なかなかいいことを言ったな」という人はいましたか?
赤木: そうですね・・・。人というより、やっぱりネットの中ですよね。私の意見を批判するにしても同調するにしても、当事者意識を持って真摯に何か書いてくれてます。
雨宮: 杉田さん、赤木さんの今までの過去のネットの文章、500枚以上、全部プリントアウトして「読んだ」って言っていたんですけど、どうでしたか。
杉田: じかにお会いするので、ちょっと頑張って読んできました。少し感想を言っていいですか。不穏なことも言うと思うので、後で容赦なく突っ込んでもらえれば。
雨宮・赤木: はい。

杉田: 赤木さんの書かれた文章(『論座』)は、「書き手が本気で書いているから、こっちも本気で読まなきゃ」という気に自然にさせられる、襟を正されるような文章でした。でも、『論座』の文章だけでは赤木さんの全貌がうかがい知れなかったので、ネットの日記を読んでみたんです。これがむちゃくちゃ膨大で・・・。
赤木: 98年ぐらいからやっています。
杉田: それで10年分、とりあえず全部読もうと思って、まずコピペして印刷してみたんですけど、ざっと164万字あって(会場 笑)。
まずそのコピペして印刷する作業を通して、赤木さんが何に絶望しているのか、その生活の重みを体感してみたいと思ったのです。まず肉体的な疲労や手間ひまから(会場 笑)。

 ●赤木智弘の本質

杉田: 率直な感想として、想像以上に胸が詰まるものがありました。赤木さんの認識は、論理的にも倫理的にも「正しい」、と僕は思いました。
 ただ同時に、結論から先に言うと、赤木さんの中でまだ躊躇しているところがあるのかなとも思った。赤木さん自身が、自分の本当の欲望というのか、そのポテンシャルを低く見積もっている気がしたんです。恐らく赤木さんが本気で望んでいるのは、漠然とした戦争なんかではない。現在の生活の根本的な改善が望めない限り、自分は「国民全員が苦しむ平等を望む」、と言っているんですが、ここで見誤ってはいけないのは、赤木さんは、決して平等というものを全否定していないんです。自分のみならず他人も含めた平等、あるいはすべての人が尊厳を持って普通に生きられる社会を本気で願っている。一見挑発的な物言いをするその底で、赤木さんのその気持ちは動かないはずです。ただ、いわゆる戦後民主主義の「平等」、あるいは左翼側の「リベラル」や右翼の「ナショナリズム」などが主張する「平和」とか「平等」というものが、いずれも根本的に欺瞞をふくんでいると。赤木さんのような人を、あるいはさらに弱い人々を、包み込むものではない。赤木さんの批判は、そこに向けられている。だから、本当に平和と平等を夢見ているにもかかわらず、国民全体が苦しむ戦争の中にしかもう平等の可能性が見られない、というねじれが赤木さんのスタンスですよね。
 でも、逆に言えば、やっぱり赤木さん自身が、戦争によっては自分が望んでいるみんなの平等や尊厳は手に入らない、とどこかで気付いているはずです。じゃあその先には何があるのか。まだ赤木さんの中にあるリミッターを取り外したときに、つまり赤木さんが欲望というか、本当の自分の希望を解放したときに、どういう光景が描けるのかということを僕は知りたい。それで・・・まだ続くんですが(笑)。

 ●ある種の優しさ

杉田: 赤木さんの文章を熟読していくと、赤木さんの本質は、ある種の「優しさ」にあるんじゃないか、と感じるんですよ。
雨宮: うんうん。だって、いい人だもん、赤木さん。「どんだけ嫌なやつ来るのか」と思ったら、すごくいい人でびっくりしたんですよ(会場 笑)。
杉田: ただ、それはセンチメントな優しさではない。本物の悪意や殺意の先に、ある種の不思議な「優しさ」が結晶化しているんだと思う。
雨宮: そう、悪意の中にある「人類愛」みたいなね。
杉田: 例えば赤木さんはこういう言い方をしています。「しかし、『それでも・・・』と思う。それでもやはり見ず知らずの他人であっても、われわれを見下す連中であっても、彼らが戦争で苦しむ様は見たくない。だから訴えている。私を戦争に向かわせないでほしい。私は、まず前提として述べていくのは、決して直下に戦争に至る道を志向しているわけではなく、戦争を避けられるものなら避けたいということ。戦争を望まなくても済む方法があるのだとしたら、それに越したことはない」と。赤木さんの社会に対する憎しみ、殺意が純粋なものだというのは間違いない。10年の日記を見れば、その過酷さは歴然としていますから。10年単位の「この繰り返しが続く」という出口のなさから赤木さんの中に刻まれていった感覚が確かにある。そこを踏まえなきゃいけない。
 赤木さんは、それでもやはり、たとえ見ず知らずの他人であってもー赤木さんを見下す人々、軽蔑し侮蔑する存在であってもー、そいつらが苦しむのは見たくない、死んでほしくない、とぎりぎりのところではっきり書いている。このねじれの感覚はなんだろう、と思うんです。聖書には「汝の敵を愛せ」という言葉がありますよね。友人や仲間じゃなくって、本当に自分を押しつぶす敵であろうと、なお、ぎりぎりのところで愛そうという気持ちが、赤木さんの文章の深いところに溶かしこまれている。僕はそう確信しました。そういう赤木さんの感覚から僕らが何を受け止めるかが大切だと思います。自分は赤木さんとは分身のように似ていながら異なる人生を生きさせられているのだけれども、自分のこの卑近な実生活の中で、どうやって赤木さん的な「にもかかわらず」「敵が苦しむのを見たくない」という感覚を生きられるのか。そういう具体的な問いとしてですね。
雨宮: いや、杉田さんもいい人ですね。何か美しい関係に見えてきた、この2人が。
杉田: いや、僕の性根はかなり悪人なんで・・・。多分今後は赤木さんとは敵対関係に入るはずなんですけれども。
赤木: 杉田さんの話聞いていると、何かおれが日記にすごい情念を込めて、必死に何か社会に訴えているような印象を受けますけど、そんな大したもんじゃないですから。
 

●阪神大震災とオウム事件と戦後50年 へ続く。

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