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秋山清・「夢二と大杉」 四
 (続)夢二と大杉 大正の恋愛 p314~323
  

 四、
 大杉が一対二(三)という多角的な恋愛に行き当たり、それがあまりな行き過ぎとして社会から指弾されたのに比べると、夢二の一対三は時間的の間(ま)があったが、それとて大杉らが注目されたのと形はちがっても、道徳的に社会から認められる、というものではなかった。夢ニ=ドン・ファン説は、彼のかかわった三人の女性とのいきさつと、それらの前後の無責任な交渉を指しての羨望的な風評であった。夢二がその生涯を彩った三人の女性との交渉を中心に、次々と彼のファンの耳目をそば立たせたいわゆる情事なるものが、それが人気者として非難めかして伝えられたことは如何ともし難い。

 いわゆる夢二の絵の女の表情を剔出させた岸環、その環との離別を決定的とした笠井彦乃、彦乃のほとんど死の前後からモデル女として画家夢二を立ち直らせた若いお葉(永井かねよ)、夢二はそれぞれの時期にこの三人によって、制作欲を促がされて、大正の歌麿の女絵を残したのである。その女性たちとのいきさつは、羨望され、非難され、ある時は彼の仕事とともに祝福された。しかし彼がドン・ファンといわれたのは、時代の道徳的立場に、彼の女出入りが、あまり歓迎されなかったというだけのことである。なるほど代表的なモデルで愛人たちとのかかわりには時間差があり、不道徳視されねばならぬのみのことではないが、世間の気に入らなかったのは、美丈夫あるいは快男児の部には入らぬ無精ったらしい半端絵書きの癖に、夢二が女にもてすぎたからであった。
代表的なその三人の女性ばかりではなく、うわさは彼方からやってきてちらほらする。それらの女名前はなお両手の指をもって数えられよう。だが夢二の好みは、生活を知った女のうつくしさと無垢の女のあいらしさ。年増女の艶冶と少女のつぶらな眸の双方に同時にひかれた。それが夢二の画家の資格のもっとも大きな才能であった。それらの特長に同時にふさわしい女性の存在は望めない。次々に姿と情緒の刺戟を求めてその満足のために彷徨した夢二を、大正はデモクラシーの時代とはいっても、なお古風で封建的な道徳感情を以って、認めぬばかりか憎みさえもした。しかし彼の心情的彷徨は彼自身にとっては自由への要求にすぎないものであった。

 大正はデモクラシーの時代であったが、その時期まだ自由は政治にも、生活にも、甚だしい無力の中に置かれていたということである。文学や芸術が自由への憧れをテーマとし、ユートピアが社会主義とともに注目されたことは、日本をまだ明治と明治以前が支配し、その中心に在って古き世間のしきたりによって「日本」をささえた国語な家の観念が幅を利かせ、人間性の自由と独立には遠かったということである。
 夢二の恋愛に感傷の気風が深くからみ、少年の憧れのような思慕がいつも添加されていたことを忘れてはならない。このことは夢二の女絵の姿態とかかわる。その画集『花の巻』の「向うむきの女」の絵に「無花果の疲」と題されており、世上にいわれるように独善のたのしみを描いたのであったとしても、夢二の感傷性は否定されはしない。それは同時に彼が、女と男を対等の存在として認識しつつあったことを証拠だてる。女性における夢二の理想が夢二によって現実の中の女に求められつづけていたことを否定することはできない。はからずも二番目の笠井彦乃によって彼は生涯の女性を得た、と後々もそういってはばからなかったのは、そこに死者への追想の美化があったとしても、当然のことであろう。理想はいつも距離を措いて在り、彦乃の死が彼の憧れを時の彼方に理想化したことは、彼の理想主義を語る、ごくあたりまえのことである。
 近頃『夢二恋歌』という夢二をモデルの小説を読んで痛感したことがある。夢二と環の最初の結合、また夢二と彦乃とのはじめての時、いとも簡単に肉体がひらかれる。太平洋戦争が終わってちょうど三十年、映画も小説もポルノ全盛、それを追って明け暮れる人々も多い今日この頃、かかる描き方には不審もないであろう。まして「異色俊英の特別書き下ろし長編」ともなれば、こういった風に夢二の恋(その時代はまだ明治)といえども取扱われる方が現代的ではあろう。しかし、早稲田鶴巻町の絵はがき店に、その小説が語るように、毎夜の閉店後に泊り込むほどの仲となったとしても、環が、夢二の求婚に応諾をためらったのは「外国貴族から芋書生まで、むらがりつどう青年たちにちやほやされる快感を、放棄するのが惜しかったからである」といった現代的な解釈を私はとらない。もし逸早く二人の結合が済んでいたのであれば、明治・大正の日本の若者らにとってそれは十分に婚約そのものであったであろう。
 大杉栄とともに、この論文に画家夢二が登場するのは、わが大正期に、恋愛の自由のため(それは人間性の自由のため)の先駆的な実践者だった彼だからである。
日本という特別に網目の細かく出来上った国の男と女の社会的立場の不均衡即ちひどい男尊女卑、それを確固たらしめている道徳と生活とそのための習慣、それをどの一角からでも崩そうとするには、社会の敵にすら廻る覚悟でなければならず、だからそれを敢えて実演する、無法者たることを恐れぬ勇者でなければならなかった。
夢二の『恋愛秘語』(大正13年刊)のなかにこんな言葉かおる。
 「何だって、愛するものを憎まねばならないのだろう。何だって、憎んでいるものを愛さればならないのだろう。 夫婦だからだ。」
これは皮肉な蔵言とでもいうべきだろうか。
「女は、信じさせようとする。 男はそれを信じようとする。 それより外に平和に暮す道はない。」

 私はこの二つの言葉を「結婚は恋愛の墓場だ」という古い流行語に絡ませて見たくなる。これらのどの言葉もむろん現在のものではなく、どれもこれも、大正時代というものでもある。社会がその制度によって人間を制約することの一つとして男女の愛の結合といえども、夫婦となれば、それが桎梏となることを、はしなくも自由人夢二は語っている。自由が自由でないことのおそろしさを、大正の歌麿がこう語ったことに、私は注目せざるを得ない。

 自由人夢二は、結婚とは互に相手を自分のみに縛りつける最悪の規制、とうけとらなかったとはいえない。出発は恋愛であっても、ともに狭い家庭に朝夕を共にし、権利ある者として互の自由を縛り合うのは、結婚と自由との相剋が、免かれ得なかった時代の負い目だったということである。いわば人間相互の自発的なむすびつき以外に、社会的なまた法律的な固めの手つづきには、規制の意味しかない、ということである。こう考えるとき「夫婦だから、憎いやつともいっしょに生きなければならぬ」となったら、人間性あるいはその「自由」にたいする最大の侮辱であろう。すでに愛情のさめ果てた者同士が、その愛のさめ果てたことを取り繕って、心にもなく平和な生活をつづけるためには、何でも相手のいうことを信じる、いや、信じた恰好をして見せる、それしかない、即ち虚偽があるのみ、ということになる。わが大正という時代には、知識人や思想家や急進的な若者たちは自由を欲することを人間の立場から堂々と論じはしたが、社会の道徳的な壁は破れず、現実に敗北して理想主義をつらぬくことは出来なかった。そのことに順応しなかった僅かな人々がいて、彼らは異端者か反逆者のごとくに扱われた。夢二がその一人であったのは知られる通りである。
 環との出遭いから同棲と結婚の道程がすでにそうであり、彦乃との恋愛の終始もまたそうであった。夢二のどこかには極端にエゴな、自立への憧れがあり、それが当時の道徳に反して見える環とのいきさつ、彦乃との同棲、あるいは彦乃の死後モデル女・お葉との生活にまで及んだが、彼の女たちとのかかわり方には、相手の自由を認めようとする苦衷があった。
 彼自身その生い育った環境からの影響もつよかったし、自堕落で自制の弱い、愛憎への歯止めの利かないものを示す一方で、最終的には、人間が孤的なものでしかないことを自覚していた。抑制されることのない愛情をしか信じなかったのである。大正の女性たちもまた自我に目ざめて、昔の女とは次のように変化すべきこと、またすでに変化しはじめていることを知っていた。
「昔は、見そめる、思いそめる、思いなやむ、こがれる、まよう、おもい死ぬ、等等の言葉があった。
今は一つしかない。『I love you』 (「砂がき」『恋愛秘語』)
むろん、この箴言には、近代の利己的な女性たちの殉ずる愛の欠落を歎くもの思いもあるのだが、その一方、自由と自己への目ざめということの厳しさの、その味わいの苦いこともよく知っていた。自立して自己をつらぬいて意志的に意地つよく生きることの辛さを噛みしめるのでなくては、男と女の恋愛が、古い道徳や習慣から脱出し得て、己自身のものとなることは出来ない。ということを夢二はほろ苦く語っているのである。

 甘さと自堕落さ、意志的に社会人として自主自律するそのことと逆に己を遊蕩させてしまう弱さを目覚しながら、夢二は自分にも、女たちにも自我を積極化することをつとめている。彼ほど未来に向けて立ち上がるであろう女たちに期待せんとした者はすくない。
『恋愛秘語」は、現代の女性への不信を語りながら、未来の女性への期待を世間の男どもに、述べる言葉でもあったのである。その中の「砂がき」の最初に、そのことを彼自身の言葉で次のように語っている。
「私の不幸は、私の夢が日毎夜毎に壊されてゆくことではない。夢がだんだん失われてゆくことだ。
 私の不幸は、女が私を欺いて、私を捨てたことではない。女の不信が、私の憧憬を打砕いたことだ。」

 そうなんだ。「夢が失われてゆくこと」ほど人間を失望させるものはない。夢二がこのようなアフォリズムをあつめて『恋愛秘語』を世に送ったのは大正13年(1924)、といえば関東大震災の翌年である。夢二の恋愛の跡を辿ってみれば、環と別れ、彦乃も遠く死の人となり、少女お葉もこの年9月に家を出で(愛人を得て去ったとも、また、山田順子への夢二のつまずきから去ったともいうが)、愛憎ともに、今は彼女たちほどの身近かな対象が杜絶していた。当時の東京市外松沢村松原(現在、世田谷区・*明大前駅辺り)の雑木林の中に自分で設計した住居を建てていたが、それは夢二式の、夢見るような雰囲気のものであった。夢二には自分の奸むものを、自らつくることのできる生まれながらの才能があった。夢二はまず愛する女たちをつくりあげた。環を下町風に仕立てて絵草紙店「港屋」の店頭に坐らせた。それは夢二の失われた日本の文化への哀惜のしるしであり、同時に商業美術家・夢二の、現実的な手腕でもあった。笠井彦乃を「山路しの」と呼びかえて、大正の下町娘を尖端的な恋の実践者とした。彦乃もまたある時、夢二描く女絵のモデルであったことはいうまでもない。現実に生きている女たちの中からえらんで、さらにわが愛の対象たるにふさわしい工作が施され、それによって相補う精神と生活を理想化したのである。その期間がみじかかっただけに、彦乃にたいするこの愛の造型には破綻がなかった。お葉の場合、形の上では完全に近く夢二の試みのままに形づくられ、夢二の女の実現化に人々を瞠目させたが、また彼女の幼さがその従順をたすけたが、精神的成長、いいかえればやがて来たその自我の自覚が破綻の動機ともなったかにも見える。夢二の恋愛の跡を辿れば、その独創の背後には反権威的な思考が見える。個の自由を妨げる現実社会の習慣と家の道徳的規制への不同調ということである。青江舜二郎がその著『竹久夢二』のなかで、まこと巧みな表現でこの夢二の特長を下のように語っている。

「路は祖先の残した最も美しい力強い創作の一つだ。・・・夢二はここに「路」の字を使っている  が、普通は道で、夢二も恐らくその積りであったにちがいない。だが路が無意識に用いられたことが私をふるえさせる。「道」はその文字のなり立ちからして、もともとすでにある  「みち」を人間が意識してあゆむものであり。「路」は足が勝手に歩いているうちにそこが「みち」になったものだと。説文などに説明されている。だから「路」という文字には道徳、騎士道な  どという使い方はないわけで、夢二は。「みち」を祖先の最もすばらしい創作という時、それはすでにつくられたものを意想していたであろうことは風景の中での「道」をかぎりなく愛した彼の数々の文章からも明らかだ。にもかかわらずここに「路」を使ったことでその内容はぐっと溌刺と人世的になる。すなわち祖先がわれわれに残した創作とは、既成の道を歩むことではなく、 われわれはひとりの「みち」を求め歩きやがてそれを「道ととなす」そのいとなみをこそ指すものであった。」(*「道」の語義については、ここでは問わない)

 既成を歩まなかった夢二におけるその既成とは、絵であり、恋愛であり、家庭であり、結婚、そして孤独であった。これは大杉栄とも共通する点だが、夢二は生涯にかかわる代表的な三人の、どの女とも結婚式らしいことをしていない。大杉もまた三人の女性との恋愛によってある時期ジャーナリズムに大きく取次沙されながら、結婚式というものをやってはいない。むろん形式よりも実践を重んじ、習俗への反撥それ自体に自我を生きた彼らであれば、当然のことであったかもしれないが、戦後新憲法の下でなお、何々家と何々家の婚礼が、明治・大正に家と家との儀式として、当然のように女は男と結婚すると同時に婚家の一員となって「家」の構成員となるというしきたりが、なおつづけられている現在に立って思うと、彼らが結婚について如何にその形式と内容にわたってのしきたりに不同調であったかを、改めて重たく受けとめねばならぬ。
重んじたのは愛であり、当事者としてのわれを大切にし、同時に相手の人格を格差なく認めたということである。

 夢二といえば、あの退廃的な女の姿と「宵待草」のうたで思いだす人の方が昔から多い。それはいわばつくられた夢二であり、あるいは欠落した夢二でしかない。自由を求めることを生活の中に持ち込んで、顧客への思惑をさほど気にもせず、だから必ずしも盛名ほどの暮らしの豊かさではなく、しかし、わが進退の自由に留意しつつ、世界の美術の風潮にも目ざとく反応したのは、社会一般の習慣の「長いものに巻かれる」ことに小さな不同調を持続しつづけたからであった。

 女々しくもあり、汚れもし、感傷癖もありながら、自我を彼の奥底で支えたものは、ヒューマニズムとレジスタンスであった。それを抱持して夢二が、孤立して日本とさえも対立し得たのは、弱い彼の、女たちへの愛情であった。社会秩序とは、この「自我」と「他我」との相互関係である。恋愛とは自他の自由がもっとも拡大され、また縮小される関係によって保たれる個的な秩序にほかならない。それを自我拡充の方面から捉えようとする秩序が恋愛である。そこに社会的秩序が恋愛の秩序によって侵されるという考えが生まれる。「大正」は自我の覚醒から、恋愛が社会的秩序に刃向かった時代であった。昭和のファシズム時代を回想するならば、この事実と歴史は忘れ難い。

 恋愛において、竹久夢二と大杉栄を以て大正のチャンピオンとするのは、それぞれに形はちがっても、社会秩序の圧力に対して彼等の恋愛を進んで取り、また守ったからである。守ったという以上に、わが秩序によって既成の社会秩序を乱した。彼等が非難されたには、そのような深い意味があった。                
 
                     1975年8月17日
  「夢二と大杉」(完)
 


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