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(続)夢二と大杉 大正の恋愛
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★秋山清著作集第7巻 p293~298
 

・・・その大正期日本の社会感情の、そのものものしさと強圧とを是非知っておく必要がある。
現在生き残っている大正人どもは、多かれ少なかれ、そのような社会動向の敗北者であるといって差支えない。巧みにその風圧をやりすごすために自我を見殺しにした、か、それに近いやりくりを為し得たその精神構造によって、ようやくそれをかいくぐったにすぎないのではあるまいか。
いつからともなく私の記憶にのこっている大正の恋愛と心中、たとえば大正10年10月に若い女性と稲毛の海中に投じた野村隈畔、大正12年(1923)6月に軽井沢に死んだ有島武郎、この人々には抗しきれなかった何ものかの影がある。しかし華族名流の夫人が自家の自動車運転手と死に損じた千葉心中、これにも世の中への抵抗が見える。世の中とは家、身分、名誉、そしてそれの綜合としての日本国家である。歌人の伊藤(柳原)白蓮が若い編集者・宮崎龍介とともに家出した事件が大きく世論を湧かした時も、世論の非難は姦通の不道徳をもって臨み、愛の現実化のための逃避は一部のロマンチストらの声援を得たにすぎなかったが、それでも彼らは生き延びて大正の恋愛物語の一頁を彩った。名声縫々たりし早大教授の島村抱月と女優松井須磨子の恋愛も記憶されている事件であった。

だが、同じく画家竹久夢二とアナキスト大杉栄が大正期に振りまいた恋の話題には、上に述べたいくつかの恋愛事件や心中事件の多くが、勝敗の如何にかかわらず結局は、はなはだしく不道徳的な事件として終始するしかなかったこととはやや異なるものがあった。その投げかけた問題はもっと深く大きく、しかも、もっとずっと理解されにくかったし、非難もつよかった。彼の愛の行為が社会の道徳的規範を明瞭に乗りこえようとするものだったからである。むろん、それは男と女との愛と結合の問題が、道徳的な範囲でのやりくりでは間にあわない、というところにまで、自由を拡大し、日本の社会組織の中のある究極の、家というものを衝き破ろうとした、ということであり、またそれは「国家」というもの(その存在とその規範)をも越えようとする性格までも、含むものがあったからである。つまり大正における夢二や大杉の恋愛は、家族や世間が認めれば、二人一組となって家庭内におちつき、無事平穏な晩年の生活をたのしみ得たかもしれない、というようなものではなかったのである。

画家として大正の歌麿ともいわれた夢二を、ドン・ファンという声は今もある。また外見は一とき非人間のようにもいわれた大杉栄をめぐっての恋愛は、彼らを悪魔とまでも非難させた。行儀のいい、性をひたかくしして綺麗ごとに終ることを男女の理想的関係の表面的な理想としたわが大正の日本が驚いたのは無理ないことかもしれない。だがもっと深い意味が、このドン・ファンと悪魔の恋愛にはひそんでいた。もっともっと、健康な意味をわれわれはこのことの中に尋ねなければならなかったのである。
竹久夢二には生涯三度の有名な恋の相手があった、ということは、今は夢二愛好者、夢二研究者にひろく知られているところである。しかし夢二は、はじめから霊肉合致とか、ピューリタンな恋だとかいって、大正文化人の新しがった恋愛観などをひけらかしてはいない。無類の女ずきではあったとしても、それでいて彼の女たちにたいする批評には痛烈なものがあった。
夢二は最初の妻で年上の恋人の岸環(きしたまき)をモデルとして夢二式の、大きな目と嫋嫋(じょうじょう)たる姿態の女性を描いて、いわゆる夢二式の女を創出して有名になったが、幾年か同居しているうちに、環の寸法のみじかい現実主義とアンチ理想主義な性格に不満を覚えた。つまり環は夢二の女の理想からは、あるものが欠如していたのかもしれない。自分がモデルとして描き出した女の中に求めらるべき精神的宥和、またはもう一歩のやさしさとたい唐性の不足を夢二は感じたのかも知れない。併せて肉体的な、または心と表情のより新鮮なるものをも。
夢二は、大正の歌麿といわれたとき、明日を望むことを共有し得ない女性に何ほどかの物足らなさ、という不安を感じた、ということのようである。
環と同居しはじめたのは明治40年(1907)1月(入籍は9月16日、明治42年5月に協議歌婚しながら11月になってようやく別居、翌明治43年1月再び同居している。夢二がすぐ結婚の届けを出さなかったのは、むしろ当時の習慣みたいなもので、妻が妊娠してあわてて手続をした、ということらしい。それから大正5年(1916)に環と別れて京都に移るまで、幾たびか同居と別居を繰り返している。この間に夢二は一介の投書家から出て挿絵の世界の流行児となり、当時第一のマスコミ画人たらしめた。明治の社会主義誌『直言』にコマ絵を初めて発表してから大方10年経っていたが、並の人の一生涯にも相当するほどの幅と量との仕事をのこした、といわれる程の制作力であった。
明治42年12月の画集『春の巻』によって、洛陽の紙価を高める程の評判を得たときからいえば、それから三年後の大正元年11月京都岡崎の府立図書館における個展の成功は、同時に東京から移展された「文展」、日本第一流の画家を網羅したその官展を、入場者数ではるかに凌いだと今に伝えられる程のものとなった。
夢二がそれからまた2年後の大正3年(1914)10月に東京の呉服橋にひらいた絵草紙店・港屋の回顧的で、どこかに江戸趣味と新しい現代の好みを調和させた手づくりを中心とした絵草紙その他の売品は、日頃の生活を美術と情緒で豊富に彩るといった思いをひろげて、ほとんど絶後の人気をあつめた。退廃的、非生産的、そして非現代的などという批評がいくら降りかかろうが、もともとそれが夢二の美の追求の特長であり、覚悟の前のことであった。多くの愛好者があつまったばかりか、うつくしい恋人たちまでが押すな押すなど集まり来て、しばし東京の名所とまでなった。大正3年といえば第一次世界大戦が勃発し、日本もドイツに対して宣戦を布告して山東半島に出兵した年である。日本の国家的なメーン・カレントは国威発揚とアジア大陸進出にあり、その強化の年であった。それはかかる夢二の仕事とは、まさにまっ正面から対立するものであった。
 むろん、一方には島村抱月が松井須磨子と芸術座を組織したり、明治の大逆事件後の社会主義復活ののろしとして大杉栄と荒畑寒村の手で『近代思想』が出はじめたり、それよりも早く女性解放を目がけての『青鞜』の刊行もすでにあり、それらもまた富国強兵主義と対立する風潮であって、夢二が孤的に偶然に大正の歌磨として出現したのではなかった。時代に先んじ、官僚的施政方針の人間の圧殺に、日本の民衆があれこれのスタイルで抵抗したというべき、その一つとして夢二の挿絵や装飾も存在したのであった。その呉服橋の絵草紙店で彼の生涯の女性・笠井彦乃と遭遇するという運命が彼をとらえた。それはやがて、うつくしくたのしい一ヵ年半の京都での同居の時を経て、引裂かれて死別するという運命に終わったが、その日から死の時までの十五年というながい追慕の年月が彼に与えられたのであった。

大正のもう一人の恋愛のチャンピオン大杉栄は大正5年(1916)11月のある日、神奈川県葉山の日蔭の茶屋で恋のもつれから神近市子に刺されて危く命を落しかけたが、それは夢二が環との同居に見きりをつけて港屋を環に与えて別居し、やがて京都に去った、という年であった。偶然の一致にすぎないことだけれど、大杉栄がその有名な一対三の恋愛トラブルの大詰としての日蔭の茶屋事件後、伊藤野枝といっしょになって、本郷菊坂の菊富士ホテルにしばし逼塞の時を味わっていた頃、夢二は彦野を秘かに京都に迎えて同棲生活を始めて、生涯第一のしあわせで平穏な日々をすごしていたのである。偶然の一致とは何をいうのか。ともかく、あらゆる羨望と嫉視と不評との中に、恋愛から生活へ、そして次の各々の道を求めるための、僅かな休息の時でもあったという、そのことである。

大杉と夢二の歩いた道は、その活動の質も実際も大いに異なっている。大杉は自分の歩幅で縦横に人の中を掻き分けて歩いて恋を得たごとくであり、夢二は、その絵と詩を通じての多数のファンの中から、うつくしさとやさしさと彼への献身のこよない女性をえらんだ、といえるようなものであった。もし夢二の恋の相手が、いや相手の彦乃の家がこの恋愛の成行を始終のとどのつまりに認めることになったら、あのような夢二の生涯にわたる美しい愛の献歌は生まれなかったかもしれない。
夢二の彦乃との同棲は大正6年から翌大正7年の10月までであったが、夢二は次男の不二彦(七歳)を連れていた。東京時代には二人きりのかくれた往来もあったであろうが、いざ同棲するとなると、当時三十三歳の夢二に十歳以上も年下の彦乃はわるびれることなくその席に坐った。親子、男女の関係としてこれは明るい。そしてもっとも理想的で現実的であった筈だ。大杉栄と伊藤野枝の場合も、伊藤野枝が辻潤との間にできた二人の子どもの母であった、ということは二人の恋愛のふかまりと現実生活に於て精神的な枷とは少しもなっていない。野枝と辻潤の長男・辻一(つじまこと)にいつか聞いたことがある。彼は「おじさん」、といって大杉に親しんだということだった。葉山だったか、沼津の海岸だったか忘れたが少年の一君は大杉家に迎えられて夏の海岸で父親ちがいの妹たちと遊びすごした、という話であった。恋愛とは男対女の問題である。その子どもその親とも家族とも切りはなして考えることが明瞭で、現実的だ、という思想をそこに見る思いがする。

葉山で神近市子に刺された後の大杉が、10年もの同棲の妻・堀保子と別れ、伊藤野枝と大正6年の2月から9月まで菊富士ホテルにひそんで、そして巣鴨の宮仲に移り、そこで彼らの長女・魔子が生まれた。大杉栄は一対三の恋愛問題で大正の世論から悪魔などとも言われ、それならとすすんでわが子に「魔子」と名づけた由である。この年11月にロシア革命、大杉は生活のどん底に、夢二の悲歎はもうすこし先であった。  (一)完
 


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