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落合論文(10)-4
●鈴木商店と台湾樟脳  「実質は上原の会社」
 

日清戦役後、台湾副総督と拓殖務相を歴任した高島が最も意を用いたのは、台湾特産の砂糖・樟脳に加え、台湾で需要の多い阿片と煙草に処する政策であった。樟脳については、神戸の商人・鈴木商店を最大手業者に育て、その実際の経営を日高尚剛に任せたのは高島の処置と思う。なお、台湾阿片政策につき、★巷説は総督府民政長官・後藤新平の功績にすべてを帰すが、それは一面に過ぎず、★日本の阿片事業の発端には児玉・後藤系と高島・上原勇作系が並立していたのである。

 鈴木商店とは大正時代、驚異的に発展した総合商社で、現在は双日となった日商の前身である。主人は「お家はん」と呼ばれた未亡人鈴木ヨネ(嘉永五・一八五三年生}で、父の西田忠右衛門は元来丹波の漆掻であったが、得意先の姫路米田町の塗師福田惣平の勧めで米田町に移り、塗り師に転じた。ヨネは当初福田の次男に嫁ぐが、やがて離婚、明治十(一八七七)年に二十六歳で神戸の砂糖商・鈴木岩次郎と再婚した。岩次郎の父は川越藩の足軽の次男で、飛脚をしていたが、貧乏のため岩次郎を奉公に出す。砂糖・菓子を扱う小商人にな
った岩次郎は、店舗を親族に与えて長崎に往き、菓子職人の修業を積んだ。神戸に帰ってきた岩次郎は、弁天浜の砂糖商・辰巳屋松原恒七の下で働くうち、商才を認められて店を譲られ、カネ辰・鈴木岩次郎商店と改称した。明治七年頃、すでに洋糖引取商・鈴木岩次郎商店の記録がある。進取の精神に富んだ岩次郎は十五年ころ神戸石油商会を設立し、取扱品目として砂糖のほか樟脳・薄荷(ハッカ)にも進出した。十九年、土佐国名野川村の貧家の伜、金子直吉が丁稚として入り、前年に入店した柳田富士松が砂糖、金子が樟脳と分担して、鈴木商店の業績は上がった。二十七年に主人岩次郎が急逝し、親族が廃業を取り沙汰するが、ヨネは決然と存続を唱えた(『黎明の女たち』より抜粋)。
しかし、ながら、後年の急拡入につながる要素は、この時点の鈴木商店には全く存在しない。★ヨネに存続を唱えさせた者が背後に居た筈と思う。
 平成八年ころ「鈴木商店は日高尚剛の手の者が経営陣に入っていた。実質は上原の会社だった]と仄聞した私(落合)だが、まさかと思い、今日まで調べなかった。しかし十年あまりの間に、これに関わる情報を得た。作家★O氏との雑談中、以前帝入系の会社に勤めていたと聞き、思わず「帝入は人も知る鈴木商店の子会社だが、その鈴木商店が★実は上原元帥の持物だった」と言ったところ、O氏は「そういえば上原元帥の孫の尚作さんはウチの重役で、私らの仲人をお願いしました」と言いだし、続けて「どこかヨソの会社から突然来て超特急で昇進、あっという間に重役です」と加えた。言われてみれば、「尚作」は「勇作」と「尚剛」の融合のように見える。勇作の長男・七之助の子息上原尚作は大正十五年生まれ、昭和二十年五月一日に上原子爵家を継承した。ご存命なら、何を差し置いても教わりたいのは、大正九年吉薗周蔵が上原の親書を張作霖に届けた時、張作霖から金五百円で譲ってもらった壷が現在どこにあるのか、である。鉄袖で楚々とした秋草を描くその壺は、乾隆皇帝が秘宝として奉天北陵に秘蔵した焼物の一つで、陶磁学者上田恭輔が汝窯青磁と鑑定した。周蔵が奉天みやげとして上原閣下に献呈すると、非常に喜ばれ、後日大森邸に伺ったら家宝として応接室に飾っていた、と 『周蔵手記』にあるからだ。
 結局、上原は高島の利権というか、事業を引き継いだわけである。防虫剤として知られる★天然樟脳はクスノキから採れるが、その生産技術は元禄年間に琉球から伝わったとの説と、正徳年間に朝鮮人から薩摩に伝わったとの説がある。★薩摩藩は樟脳を特許品として藩が独占的に買い上げ、一部を小売店に卸す以外は長崎に回し、オランダ・清国に輸出していた。明治二年頃、新素材の「セルロイド」が発明されると、その可塑剤として不可欠な天然樟脳は合成品が出来る大正後期まで、極めて重要な物資とされた。
江戸時代から輸出品だった樟脳の輸出は、明治初年から神戸港が中心で、鈴木商店も主要扱い品目とした。明治二十八年、日本領土となった台湾は世界的な樟脳の産地である。薩摩藩の樟脳専売制による利益を知っていた樺山総督と高島副総督は、樟脳製造事業に注目し、早くも同年十月「官有林野及樟脳製造業取締規則」を作り、樟脳製造に官許の制限を加えた,
 翌二十九年から三十一年まで、初代拓殖務相として台湾経営の最高責任者なった高島は、台湾財政の柱として各種の官業政策を練る。二代目総督桂太郎は二十九年六月から十月まで短期間の腰掛けで実際には赴任せず、後を継いだ陸軍大将・乃木希典が三十一年二月まで総督であった。

★専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳と食塩について実施されるが、右の経緯と時期を見ても、専売政策の根幹が高島によることは自明である。総督を監督する拓殖務相は、大阪偕行社以来の乃木の上司で媒酌までした高島である。乃木は高島の指揮を受け、高島の樟脳等官業路線に忠実に従った。
 

 三十一年二月、児玉源太郎が第四代台湾総督となる。児玉がその後、総督の地位に固執したのはアヘンの価値を知悉していだからである。児玉は参謀次長や文部大臣を兼職しつつ、八年も総督に在任、民政長官に就けた後藤新平も八年間在職した。 その期間の長さのため、巷説では児玉・後藤コンビが強調され、桂・乃木時代の台湾行政に見るべきものはないと謂うが、★台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策は、実は高島拓殖務相・樺山総督時代に決まったものと観るしかない。     

   落合論文(10)完。

 

 
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