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落合論文(10)-3
●陸相時代の高島鞆之助とその後の「伸び悩み」の謎
 


 明治十三年三月、一年にわたる仏独視察から帰国した陸軍少将高島鞆之助は、四月に熊本鎮台司令官に就き、翌年二月に大阪鎮台司令官に転じた。次いで西部監軍部長心得を経て、十六(一八八三)年二月に四十歳を以て中将に進級、西武監軍部長となった。以後は十八年九月に大阪鎮台司令官、二十一年五月に第四師団長となる。つまり明治二十四(一八九一)年に陸軍大臣に就くまでの十年間、ずっと大阪に駐在し、関西在住の陸軍トップとして諸般の事業に携わった。なかでも大阪鎮台指令官時代の二十一年四月、陸軍軍人の社交団体たる財団法人大阪偕行社に附属小学校を創設したことはよく知られている。現在追手門学院に発展した大阪偕行社附属小学校は、薩摩の郷中教育を建学の精神とし、さらに高島が外遊中に覚った外国語教育の必要性から、英語教育を行い国際感覚の研磨を目指し、西の学習院とも呼ばれた。

 内閣制度の発足以来、八年間にわたり陸相を独占した大山巌(一八四二生)の後、第二代陸相を高島が継いだのは明治二四年五月十七日成立の第一次松方内閣である。海軍でも大山の海陸相兼任の時期を除き、西郷従道(一八四三生)が海相を独占していたが、二三年五月十七日に樺山資紀(一八三七生)に交替した。こうして第一次松方内閣の軍部大臣には高島と樺山が揃って就いたが、十一月から始まった第二国会において政府の軍拡予算案が否定され、これに対して樺山が打った蛮勇演説で議会が荒れたので、松方は衆議院を解散する。続く第二回総選挙で、松方内閣は歴史的な選挙大干渉を行うが、それでも民党が勝利した、選挙後内相に就いた河野敏鎌の善後処置は、干渉の最も激しかった佐賀・高知両県の知事すなわち樺山資雄と調所広丈の更迭であった。閣内で選挙干渉を叫んだ高島・樺山の両大臣は、これに反対して辞表を提出したので、明治二十五(一八九二)年八月八日を以て第一次松方内閣は倒壊した。
 高島は予備役に編入、樺山も現役を退き共に枢密顧問官となる。時に高島は四十九歳、上原勇作の時代ならば陸軍少将が相当で、当然現役である。予備役入り後も陰の陸軍首脳だった高島が、日清間に戦雲渦巻く中で一体何をしていたのか、不思議である。

 二十八年八月、日清講和が済んだ後、政府は予備中将・高島鞆之助を急遽台湾副総督に任じ、追って現役に復帰せしめた。樺山総督を支援する「土匪」平定の任務で、樺山の強い要請によるものである。南進司令官として土匪討伐を果たし、十二月凱旋した高島は、翌年四月に第三次伊藤内閲が新設した拓殖務省の初代大臣として台湾総督府の監督に当たる。九月に第二次松方内開が成立するや、再び陸相(兼職)となり、三十年九月行政整理で拓殖務省が廃された後は、陸相を本官として翌年一月までその職にあった。つまり、二十五年八月を以て予備役に編入した高島は、三年後に起用されて台湾副総督となり現役復帰、その後拓殖務省さらに陸相と、二年半にわたり最重職を歴任し来るべき日露戦に備うべく軍政の重責に任じた。こうして観るに、日清戦争の直前並びに戦中において、高島が一体何をしていたのか、やはり不思議である。日清戦役の前後において、右(*上)の重責を果たした高島が位階勲等の昇叙に全く与らなかったのも不思議である。日清戦役中は予備役だったし、現役復帰後の台湾掃討の軍功は大将進級には不足だったらしい。既に十七年に子爵に叙爵、二十年に勲一等旭日大綬章を授かっていたが、勲一等桐花大綬章の沙汰もなかった。つまり、すでに達していた勲等が高過ぎて昇叙の余地がなかったことになる。結局、恩賞の沙汰といえば、大正五年逝去に際して賜わる旭日桐花大綬章と正二位(首相級の位で、追贈と思う)だけでは世間の不審が偲ばれる。

 高島は明治三十一年一月十二日陸相を辞し、長州閥の寵児桂太郎が後を継いだ。五十五歳で将官として最も油の乗る年頃での予備役編入は桂太郎による人事とされ、「その筋に大きな衝撃をもたらした出来事であった」(『日本陸軍とアジア政策』)とされる。同時に、陸軍参謀総長も小松宮彰仁親王から川上操六中将(一八四七生)に代わる。川上は薩摩藩士で、幕末に京の薩摩屋敷でギンヅルと知り合い、維新後に親密な仲になったという。桂と川上は同年の生まれで大佐進級も同日付、以後ずっと同日付で進級してきた好敵手で、軍政家の桂を陸軍大臣、軍略家の川上を参謀総長に配したのである。対露戦争計画を一身に委任された川上は、同年九月桂と並んで大将に進級したものの、翌年五月五十三歳で急逝してしまう。後任がいないので、陸軍は大変な騒ぎになるが、折しも一年半前まで陸相だった高島が予備役中将・枢密顧問官の閑職にいた。陸軍の最高首脳は高島を措いてなく、薩摩閥がその参謀総長の就任を図ったことは当然で、新発見の『宇都宮太郎日記』がその経緯を記しているが後稿で論じたい。結局参謀総長の選考から外れた高島は、四十五年四月の退役まで二度と現役に復帰せず一切の軍務に関わらず、大正五年逝去までの十八年間を枢密顧問官として過ごした。なぜ参謀総長になれなかったのか。世間は晩年の高島を評するに直情径行と才能の伸び悩みを以てするが、真相はそんな所にない。いずれ後稿で明らかにしたい。 (続)
 

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