カウンター 読書日記 落合論文・(10)-2
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落合論文・(10)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記
 
 ★上原応援団「第二世代」 ワンワールドの逸材たち 
 

  上原応援団の第二世代も上原勇作(一八五六生)と関係が深い。
上原より一歳年長が吉井の長男・幸蔵(一八五五生)で、これが第二世代の頭と覚しい。男性は吉井の次男で高島の養嗣子・友武(一八六七生)、その義弟に当たる高島の次女球磨子の夫樺山資英(一八六八生)、樺山資紀の長・男愛輔(一八六五生)が並ぶ。女性では、野津道貰の長女で上原の妻・槙子(一八七三生)、高島の長女で友武の妻・多嘉(一八七三生)、高島の次女で資英の妻・球磨子(一八八一生)、以上が第ニ世代の主たる処だが男女別に互いの年齢が極めて接近しており、意思疎通が極めて円滑だったと想像される。

 直系子女ではないがこれに準ずる樺出資英は、薩摩藩士で各所の知事を歴任した樺山資雄の次男である。姓名からして資紀と同族と分かるが、資紀自身は橋口家からの養子である。資英の実兄の阿多壮五郎は戊辰役で戦功あり、明治四年将兵創設に応じて上京、初任陸軍大尉。征韓論の破裂に際しては西郷に従って薩摩に帰り、西南役で奮戦死したが、今日まで伝わるその勇壮さから、西南役に巻き込まれていなかったら軍人として出世し、男爵くらいにはなったと思う。父の樺出資雄は、内務省にいたため西南役に巻き込まれずに済み、当時少年だった資英も西南役を免れて、明治二十一(一八八八)年に渡米、コロンビア大学からエ-ル大学に移り法学士、同大学院で法学修士と法学博士の学位を得た。この経歴で●資英がワンワールドの逸材ということは分かるが、学費は誰が支弁したのか不思議である。明治二十六年に帰朝した資英は、二十八年五月に台湾総督府が設置されるや陸軍省雇員・大本営付通訳官、更に台湾総督府参事官となるが、樺山総督の特命であろう。明治二十九年四月、拓殖務省が新設されるや同省に転じた資英は、大臣秘書官兼・官房秘書課長として初代大臣の高島に仕え、高島の次女・球磨子(一八八一生)を娶り、高島友武(旧吉井)と義兄弟となった。三十年八月、行政整理のために柘殖務省が廃止されるや、資英は第二次松方内閣の首相秘書官に転じるが、★吉井・高島・樺山の閨閥は金融ワンワールドの日本総帥たる松方正義とも近かった。

 明治三十一年一月第三次伊藤内閣が成立するや辞官した資英は、六月の大隈内閣には仕官せず、十一月の第二次山県内閣で樺山資紀が文部大臣に就くのを待って大臣秘書官となる。三十三年十月の第四次伊藤内閣の成立により辞官した資英の、その後の十数年は未詳だが、大正三年から五年間を満鉄理事として過ごした後、大正十二年の山本権兵衛内閣で内閣書記長に挙げられた。
以後、大正十三年から昭和十六年の逝去時まで十七年にわたり貴族院議員を勤めた。授爵にはいたらなかったが相当の大物である。その余の第二世代の人物については、後で述べよう。
(続)

 

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