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原爆投下について。(続)
 先ず、『ニューリーダー』誌・9号から、保坂正康氏の一文を紹介しよう。
 連載記事・「取材ノートは語る」昭和を生きた人々⑨
 題して
 ★ウラン爆弾開発の苦悩を歴史に刻んだ技術将校。

 以下引用する。***

  ●東京帝大から理研研究者、戦後は防錆技術の権威に
 今年の夏は例年よりは暑かったように思う。八月の初め、私はいつもの通り涼を求めて北海道ですごした。しかしその北海道も今年は猛暑という表現がふさわしい日がつづいた。
 六日の広島への原爆投下、九日の長崎への投下とつづく日々をメディアのニュースに接しながら見守った。今年は久間前防衛相の原爆投下容認発言があり、被爆者の人たちの怒りもきわめて高かったように思う。このようなニュースに接していると、八月にはいつもひとりの元技術将校の姿を思いだす。なんども取材に応じてもらったのだが、この人物、山本洋一の証言は重要な意味をもっているにもかかわらず今ではその発言の重さが理解されていないとの感がしてならないのだ。
 まず始めに山本洋一(1904~2002)の略歴を語っておきたい。これは拙著(『昭和の空白を読み解く』)からの引用だと断っておく。
 「 昭和16年に陸軍技術研究所に入所し、翌年には陸軍技術少佐に任命した。第ハ陸軍技術研究所所員となる。終戦により復員し、四八年(昭和二十三年)に日本大学理工学部教授となる。定年退職後は日本学術振興会腐蝕防止委員会委員、顧問を歴任し、日本技術士会、金属表画技術協会、日本防錆技術協会の設立に参画する。」
この略歴からはなかなかわからないが、山本は金属のサビの研究者である。しかし私が山本に会ったのは、昭和五十七年ごろから六十年までの間で、その間十数回にわたり貴重な話を聞きだした。山本は東京帝大理学部を卒業し、それから理化学研究所(理研)に身を置いた研究者であった。このころ東京帝大で原子物理学を学ぶのは秀才といわれ、理研の仁科芳雄教室に入るのは典型的な学究派の人物といわれた。加えて経済生活にもあまり頓着しない恵まれた家庭に育った者が多かった。長岡半太郎の息子にあたる嵯峨根遼吉などはその典型といわれたほどである。
 山本は歌舞妓の裏方の名門の家に生まれた。経済生活は豊かで、しかも理研に入って研究者としての道を着実に歩んでいた。ところが太平洋戦争の始まる前に、理研から陸軍技術研究所に突然徴用されてしまったのである。軍服を着た研究者として、その研究を兵器の開発に生かせと命じられた。後年、山本はサビの研究者として国際的にも有名になるが、戦時下ではそのような研究に携わったのではない。
 「私はウラン235の核爆発を兵器化するプロジェクトを命じられた。具体的にいうと日本の原爆製造の開発計画ということになる。日本にもそういう計画があったことは、君も知っているだろうが、私は直接にかかわったので具体的に知っている。君に話してあげるが、そのかわり私の考え方は正確に歴史にのこしてほしい」

 ●日本の原爆開発計画のすべてを語ってくれた
 私は、山本の名を仁科のもとで行われた「二号研究」の名簿を見て、専門的な話を聞きたいと連絡をとった。東京・三鷹ですでに現役を退いていた山本は、時間に余裕があったせいか日本の原爆開発計画について、自らが知っていることはすべて話してくれることになった。あまつさえ自らの資料をコピーにすることも許してくれたうえに、その史料についても説明してくれたのだ。
 そのためか、私は陸軍の進めていた原爆製造計画は頭にいれることができた。私は山本から、この計画にかかわった現役の原子物理学者の名を聞き、次々に取材を申し込んだ。快く会ってくれる人もいる反面、「われわれは研究者だった。仁科先生を始めわれわれはそんな計画にタッチしたことなどない。よけいなことは調べるな」と電話口でわめきちらした大学教授もいた。
 山本は、私がこうした体験をしたというと苦笑して、「戦時下では料学者も戦争に協力しなければといわれて、誰もが矛盾を感じながらもこの兵器の開発にとりくんだ」といい、こうした学者はシラを切ることで歴史のなかに科学者の苦悩を刻みつけるという役割を放棄していると批判した。
 この意見には、私もまったく同感であった。そして山本のように、科学者が日本でも犯罪的な研究を進めたことを教訓として残さなければならないとの考えがよくわかった。そのことを語るときー自宅の応接間で、山本は「本当はこんなことを語りたくはないのだが」とつぶやきながら、日本が原爆を開発できなくてよかったともいった。もし開発に成功していたら、東條内開はサイパン奪回のために使うつもりでいたと軍首脳から聞かされていたと洩らした。
 もっとも日本の国内では、原爆製造はまったく無理だった。ウラン235はウラン化合物中にわずか0.8 %しかないという。中型トラックー台のウラン原石からわずかスプーンー杯しかとれないというのだ。このウラン235に中性子をあてて爆発を起こさせるのがウラン爆弾(原子爆弾のこと)であった。日本はウラン原石もなければウラン235だけをとりだすための濃縮の技術もなかった。それだけの工場と人員、そして科学者を動員することなどまったく無理だったのだ。アメリカのマンハッタン計画に比べると、まったく幼児並みの状態だったといえた。
 「私はとにかく軍事指導者たちからいわれてウラン原石をさがすのに必死でした。日本中歩いたし、朝鮮などにも行った。最後、福島県のある町でウラン原石がでるのではと勤労動員の中学生などと穴掘りをする状態だったのだからどうにもなりません」  

 
●科学者が助言すれば長崎に原爆を投下されずにすんだ 


 私が山本と会っていたときは、すでに八十代に入っていてしかも脳梗塞を起こしたこともあって半身は不自由であった。だがなんどか会っているうちに山本が真にいいたいことがわかってきた。次のことだったのである。
 ★「僕はね、長崎に原爆が段下されずにすんだと思っている。その理由は、広島に原爆投下されたとき、仁科先生をはじめ何人かはすぐにこれはわれわれの開発しようとしていたウラン爆弾だとわかった。それゆえにすぐに天皇にも軍事指導者にも戦争が人類皆殺しという新しい段階に入ったのだからポツダム宣言を受諾しなさいと助言すべきだった。ところが科学者たち
は皆黙っていて、ひそかに仲間うちだけでどうもウラン爆弾らしいと噂していただけなんだ」
 広島への投下から長崎への投下まで七十二時間という時間があった。この期間に、ラジオ放送などで「日本は戦争をやめる」と発表すべきであり、そうすれば長崎への投下は防げたと何度も強調した。
 「山本さんもそれを上司に伝えればよかったのではないですか」
 「むろん私なりに伝えた。だがこっちは技術将校の若僧だ。仁科先生は長老であり、政治や軍事、そして天皇さんにも意見を伝えることができたんだ」
 山本はこの事実を歴史の上にきちんとのこしておいてほしいとくり返した。
私は八月の猛暑のなかで、応接間のソファに座りながら無念そうにつぶやいた姿をいつも思いだす。そして山本のような証言者と出会えたことに感謝しているのである。 (敬称略) *** 引用了。

●ほさか・まさやす 一九三九年生まれ。個人誌『昭和史講座』の刊行など、一連の昭和史研究で、菊池宣言受賞。著書は『東條英機と天皇の時代』『瀬島龍三』『昭和史七つの謎』『死なう団事件』『昭和史の教訓』など多数。 

 
 
 ●鳥居民の『原爆を投下するまで日本を降伏させるなートルーマンとバーンズの陰謀』
      (2005.6.7 草思社刊)
 ●長谷川毅の『暗闘ースターリン、トルーマンと日本降伏』
      (2006.2.10 中央公論新社刊)
  二冊の労作を読み知った者からすれば、この山本氏は、良心的科学者として
  何と幸福な死を死んでいったことかと、皮肉でなく思う。
  「ナイーブ」というのは、冷酷な国際政治の論理の前には「美点」ではないと言えば
  酷だろう。しかし、我々が、同様な「感慨」を、今の時点で抱いていたとすると、
  その「ナイーブさ」は、限りなく「罪」に近い。

  念を押しておけば、1986.6.30という日付を持つ
  ●『日本の危険』(藤原肇・馬野周二・東明社刊)の特に巻末、
  「ワシントンの戦争王」=カーティス・ドール大佐とのインタビュー
  にも学んでいたはずなのだ、我々は。・・・これは、自戒。  


 

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