カウンター 読書日記 『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
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『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
●奉安殿と御真影の死守

 昭和三年(一九二八)十月、昭和天皇と皇后の御真影が、いっせいに全国の小中学校に下賜された。しかし昭和六年(一九三一)一月から四月にかけて御真影の奉還がおこなわれ、その数日後、御真影再下賜がおこなわれた。

 この昭和六年におこなわれた御真影の奉還、再下賜という不思議な惜置がとられた理由について、『神戸小学校五十年史』に、「昭和三年十月九日拝戴した御真影は御即位御大典拝賀のために御貸下あそばされたのであるから、昭和六年一月十五日、一旦奉還することになった……」と記されている。つまり昭和三年に下賜された御真影は、昭和三年十一月十日の即位大典のために、一時的に貸し出したものというのである。
 それにしても、なぜ返還、再下賜という奇妙なことがおこなわれたのだろう。その理由は謎につつまれているが、一つ考えられることは、御真影製作上の写真技術の問題である。ここで思いだされるのが、写真史家・小沢健志氏の「大正天皇の御真影はガスライト紙、昭和天皇の御真影はカーボン印画」という証言である。これを裏づける興味深い事件がある。

 昭和七年七月三十日、長野県の下諏訪尋常高等小学校の御真影が盗まれ、校長の自宅に現金六百円渡せば返すと強迫してきた。犯人は指定した場所に御真影を置き、校長は現金を置いたが、その少しの時間の間に行商人が御真影をひろって警察にとどけたことから、長野県下全体を震憾させる大事件となった。この時、警察は上諏訪で一流の立木写真館の主人に鑑定させたところ、「東京でも大阪でもふつうの写真屋ではできないもの」であることがわかった。つまり昭和天皇の御真影は、当時の写真館で一般に使われていたガスライト紙ではなく、カーボン印画であることを示している。

 先にも述べたように、カーボン印画は、ガスライト紙にくらべれば、手続きはめんどうだが、半永久的に不変色という最大の利点があった。ここに昭和六年の再下賜の謎を解く鍵があるように思われる。つまり昭和三年の御真影は即位大典に間にあわせるために、作業工程が条なガスライト紙で大量に焼き付けて下賜した。一方、カーボン印画による半永久的に退色しない御真影の製作がつづけられ、大量にそろった昭和六年になって、全国いっせいにガスライト紙の御真影を回収し、カーボン印画の御真影を再下賜したのではないかと考えられるのである。

 昭和十一年(一九三六)に千葉県が出した「県秘乙第五三〇号」は、御真影を毎月一回点検するよう指示したものだが、その中に「今上、皇后両陛下ノ御真影ハ永久不変色ナルヲ以テ湿気ヲ帯ビタル場合ハ硝子越ノ光線二十分以内当ツルモ差支ナシ」という一条がある。科学的に銀塩のガスライト紙は紫外線に弱いが、カーボン印画は炭素なので太陽の紫外線に強い。これは昭和天皇の御真影は、永久不変色のカーボン印画であることを意味するものである。

 カーボン印画による永久不変色化は、「万世一系、天壌無窮」の天皇制国家の思想を化学的に強化し、御真影の呪力を決定的に高めることにほかならなかった。

 それと共に御真影の管理はさらに厳重になり、御真影の検閲がおこなわれるようになった。・・・中略・・・

 ・・・こうして厳重な管理を強制され、校舎から独立して御真影を安置する「奉安殿」が建設された。まさに奉安殿は、御真影を神として祀る神殿であった。

 昭和十一(一九三六)年四月に長崎県で出された通牒では、「時局益々重大ニシテ国体明徴ノ声愈々高調セラルヽノ時肇国ノ精神ヲ闡明ニシ君至ノ大義ヲ宣揚スルハ最モ契(ママ)緊ノ事二属ス」ので、「御影奉安殿施設ノ漸次完備シツゝアルハ臣民忠誠ノ発露トシテ喜二堪ヘサル所ニシテ之が教育上二及ホス好果亦勘カサルヘキヲ信ス……」と、奉安殿を完備するよう通達が出された。奉安殿の建設は、大正時代にも土蔵造りで作られたが、昭和十年前後に急激に建造された。当時は世界的に大恐慌の嵐が吹きあれていたが、村出身の在京の人々などから寄付を募って資金を集め、多くは鉄筋コンクリートで神社や宮殿の様式で奉安殿が建てられていった。

 奉安殿の普及は、単に火事や虫害、湿害から御真影を守るという物理的な面以上に、御真影を「秘して隠す」という精神的な作用の大きさにあったことに注目すべきであろう。むかしから日本では「秘仏」にして隠し、見ることを禁じた神仏ほど、神秘感が増して強く信仰されている。奉安殿の普及によって、御真影の神格化はさらに増大し、国民に対する恐怖の呪縛力も強大になっていった。

 一方、時局は風雲急をつげていた。昭和六年(一九三一)の満州事変以後、日本は侵略戦争を拡大し、昭和十二年(一九三七)、蘆溝橋事件を契機に起こった日中戦争はドロ沼化し、昭和十五年(一九四〇)、北部仏印へ進駐、翌十六年、ハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争へと突入していった。

 そして本土空襲が激化すると、「御真影の奉蔵死守」が指示されるまでになった。戦争が激化する中、御真影を死守するために多くの教師が殉職していき、日本は破局の進をつき進んでいった。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、ラジオの玉音放送で、日本の敗戦が国民に告げられた。それは国民が初めて聞く現人神の天皇の声であった。

  >>「御真影」了。

 

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