カウンター 読書日記 『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
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『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
 ★御真影の下賜と鶏卵紙

 慶応三年(一八六七)十月十四日、十五代将軍・徳川慶喜は大政奉還し、十二月九日、王政復古の大号令が発せられ、徳川三百年の歴史は幕を閉じた。
 明治元年(一八六八)七月十七日、東幸の詔を発して江戸を東京と改称した。九月二十日、明治天皇は京都を出発し、十月十三日に東京に着き入城。江戸城は東京城と改められた。
 明治天皇の東京行幸は二八〇〇人の大行列で、内侍所の神宝(三種の神器の鏡・八咫鏡)がついていた。途中休息する所に、神器を安置する建物が急造され、神器礼拝に老若男女が集まった。この時、行列の通る沿道の宿泊地に出された触書には、神社の鳥居や灯龍はよいが、仏像、石塔には菰やよしずで囲い、墓のある寺は閉門せよ、道筋には白砂を敷き、路端の便所は筵で囲い、土中にある便壷は埋めて取り除け、「エタ村」はムシロ、ヨシズの類で隠して見えないようにせよ……、とものものしい内容が書かれていた。
 これは天皇の聖=浄に対する賤=不浄を除き、白砂の上を歩くことで、天皇が神聖なる存在であることを天下に見せつける演出にほかならなかった。
 こうして明治天皇は、いったん皇居(東京城)に入るが、再び京都に還幸し、翌明治二年三月、再び東幸して三月二十七日に入城。この時、太政官も東京に移され、事実上の東京遷都になった。
興味深いことは、明治元年十二月十九日、朝廷が徳川宗達に対して「紅葉山ノ霊屋」の撤去を命じていること、明治二年十一月十七日、八神殿の仮神殿で鎮座式をおこなったことである。すでに天照大神の御霊代とされる三種の神器の八咫鏡(ヤタノカガミ) は明治天皇と共に入城して賢所に祀られており、新造した八神殿に神式天皇以下の歴代天皇の「皇霊」と天皇家の守護神である「八神」と天津神、国津神の「天神地祇」が祀られた(のちに皇霊殿が建てられ、八神殿は神殿と呼称が変わり、賢所と合わせて宮中三殿とよばれる。)
 つまり、明治天皇が最初に皇居に入った時には、まだ紅葉山東照宮に東照大権現が祀られており、明治天皇が皇居を出た後に、紅葉山東照宮が破却され、東照大権現の御神体と歴代将軍の霊が撤去され、その後に明治天皇が再び東幸して入城し、こんどは天皇家の祖神・天照大神と歴代天皇の霊を祀っているのである。
 明治新政府は、『古事記』や『日本書紀』の神話を根拠に、紀元節、皇霊祭、神武天皇祭などを創り出し、神嘗祭や新嘗祭と合わせて、大がかりな国家神道の祝祭儀礼で、天皇を現人神とする近代天皇制国家を創り上げていった。
 天皇の肖像写真である「ご真影」もまた、近代天皇制国家を支える一種の宗教的な呪具として使われた。なお、天皇の公式肖像写真は、正式には「御写真」で、聖影、御影、宸影などとも呼ばれたが、本稿では最も一般的に使われた「御真影」を用いる。
 当時、写真を写すと命が縮むといった迷信が示すように、「写る」という写真の機能は神秘的な呪具であり、文明開化を象徴する最新の文化であった。
ご真影は、国家を思想化し国民を支配するために、写真が政治的に使われたという点で、おそらく世界の写真史でも例がない試みであった。いま御真影が近代天皇制国家を支えるために、どのような形で利用されたか、また写真技術の進歩が、いかに御真影の国民に対する呪縛力を強化するために使われたか、時代を追って眺めてゆきたい。

 

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