カウンター 読書日記 『江戸王権のコスモロジー』
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『江戸王権のコスモロジー』
 <呪術者・天海> 

 やさしい母の代わりとしての春日局、その対極の厳格な父の代わりとしての家康。家光が祖父・家康を異常なまでに美化して崇拝の念をもつことになった背景には、そんな家光の複雑な幼少年期の心理があったように思われる。輪王寺に伝わる御守文書の中には、次のようなものもある。

 いきるも しぬるも なに事も  みな 大こんけんさま したに(次第に)、将くん こともみな しん(神)へ あけ候まゝ、な事も おもわくす しん おありかたく存、 あさゆふに おかみ申ほかわなく候    花押 将くん(将軍=家光)

 この文書には、家光の花押と家光自身をさす将くん(将軍)と書かれている。「生きるも死ぬるも、みな大権現さま次第……」という一節にこそ、家光の熱烈な家康崇拝をみることができる。家光が異常なまでに家康を崇拝していたことを示す多くのエピソードが残されている。

 家光は、話の途中で誰かが神祖・家康のことを話しだすと、「しばし待候へ」といって、袴を着し正座して両手をつき、「さて、権現様は何と仰られし」と謹んで聞いたという。また、二の丸東照宮に奉拝するために、正装してから、しばらく待つことがあったが、手水で手を清めてからは、手を膝に上向けにして、けっして衣につかぬようにした。またある時、家光は、瘧病(おこりやまい)は尊き事を恐れて落ちるものと聞くが、わが瘧は落とすべきものがない、と言うと、それを聞いた永井豊前守直貞が、「上様のおこりは、権現様の御供物の書のきれにても奉らば、おち申すべし」と言上した。家光は日光の御供米をいただいたところよくなったという。

 家光の家康への尊敬の念は、単に孫からの、偉大なる祖父に対する尊敬といった単純なものではなく、ほとんど精神医学の研究テーマの領域に属するものといったほうがよい。御守文書の中には、次のようなものも発見されている。

 二世こんけん    んく将世二 (表)
 二世転りん     んけんこ世二(裏)

 家光は二世権現、二世将軍、つまり家光自身が家康の生まれ変わりと信じていたのである。そもそも
躁うつ病者の病前性格には、「他者との無際限で無差別な合体」や「自我理想と自己の融合」がみられる。
これは相手に対する過剰なる思いこみであり、自己が満たしたい欲求を直接の自己によってではなく、むしろほれこみの対象を介しておこなおうとすることである。その対象との一体感は、愛情を求めて母親の乳房の中に抱かれた時に感ずる一体感や至福感、安堵感に似ているという。「二世こんけん 二世将くん」という御守文書は、自己の理想像を家康に求め、過剰なる思いこみによって神格化した家康と融合一体化することによって、夢幻の喜びの境地にひたっていた家光の躁うつ病的な性格を伝えているといえよう。

 東照大権現
  慈眼大師
 征夷大将軍源朝臣家光公

 これも輪王寺に伝わる家光の御守文書である。この慈眼大師とは天海のことである。家光は二世権現、二世将軍と、自らを家康の再生と考えていたが、その崇拝の念は家康の死後、天海ともダブルイメージとなっていたことを示している。広野三郎によると、この御守文書は家光自身が書いたものではなく、その筆蹟は後西天皇の宸筆に酷似しているという。権威の象徴である天皇に書かせるほど、家光はこの御守文書を大事にしてきたことを示している。

 家康の死後、家光は天海の中に家康の影を求めていたところがあり、家光が病気の天海にあてた書状に、
「こんけん様と思召、かほとに大事に被思召候処、ぶやうしやう(不養生)いたされ候はば御かまい被成ましき事」という一節がある。

 家光は天海に対して、権現様(家康)と同じだと思って養生してほしい、と言っており、家光にとって、天海と家康は重なっていたのである。さらに、寛永二十年(一六四三)天海が死の病につくと、七月二十二日に、家光は天海のもとへ老中松平信綱を遣わせて見舞わせ、医師二人を派遣して治療にあたらせた。
さらに自分自身も八月二十一日・二十三日、九月八日・二十九日と、たてつづけにほぼ十日に一度の割で上野へ天海の見舞に訪れているが、将軍自身が個人的に一僧侶の見舞に訪れるなどということは前代未聞であり、異例のことである。そして天海が入滅すると、東叡山で葬儀ののち、遺骸は日光に移され大黒山に埋葬されたが、この時の移葬の行列は僧俗あわせて一千余人におよぶ盛大なものであった。家康の遺骸が久能山から日光へ遷座される時の行列でさえ一千三百余人であり、一僧の葬列としては異常としかいいようがない規模である。その後、家光が慶安四年(一六五一)に亡くなると、天海と同じように東叡山で葬儀ののち、遺骸は日光に移葬され、天海のねむる大黒山の峰つづきに埋葬され、大猷院が建てられた。天海と家光の遺体は、あたかも家光の御守文書に「東照大権現 慈眼大師 家光」と書かれていると同じように、三人の遺体は今も日光に眠っているのである。

 さて、ここに家光が家康のように崇敬していた<天海>の存在が大きくクローズアップされてきた。その天海の役割を暗示する興味深い資料がある。

 返々、めてたき御むさう(夢想)にて御さ候、ことさら八日は御やくし(薬師)のゑん日(縁日)、とらの日にて、権現様の 御つけと、一しほ めてたく、ありかたくそんし候、わさと めてたさまてに御たる、もくろくのことくしんし(信じ)候、 めてかしこ

 この春のめてたさ、公方様御きけんよく、いつにすくれおほしめしのまゝの御年あそはされ、めてたさおなし御事にて御さ候、左様二候へは、いたくらすわう(板倉周防)殿よりこの文のことく、京まち人むさう(夢想)を見申候とて、わさとつきひきゃくにて御下侯まゝ、公方様へひろう(披露)申候ヘハ、すなハち御十七日にそこ御ほとにて御ひらき候へと、御むさうのかきつけをも、すわう殿文をも、御めにかけまいらせ候、 めてかしこ、
 「十三日(奥ウハ書)
  大僧正さま かすか
  人ゝ御申」」

 これは春日局から天海にあてた書状である。この書状を読むために知っていなければならないことは、家康は薬師如来の生まれ変わりとされ、東照大権現の本地仏も薬師であり、その縁日は八日である。家康は寅年生まれであり、十七日は家康の命日であるということである。この書状の内容は、京都で、家康に関係の深い八日に夢想の託宣をする者がいた。そこで京都所司代の板倉周防守が飛脚でとどけてきたので、家光に見せたところ、家康の命日の十七日に開封せよといわれた。そこで夢想と板倉の書状をとどけるので、天海に夢想の判断をしてほしいというものである。たぶん夢想をしたのは、山伏とか陰陽師あたりと思われるが、★そんな夢想を京都所司代がわざわざ飛脚でとどけ、それを家光の命令で天海に指示をあおいでいるのである。

 一昨日廿四日夜の五つ時ニ、きつね いくこゑもなき申候、又、九つ時にも殊外なかく(長く)なき申候、なきまいらせ候かた、五つ時ニハみなみにし(南西)の方にて なき申し候、九つ時にハ、きたひかしの方にてなき申候、きっと御かんかえ被成、仰可被下候……

 これは家康の側室だった永勝院から天海にあてた書状で、狐が五つ時(午後八時ごろ)に南西の方で鳴き、九つ時(深夜十二時ごろ)に北東の方で鳴いた。南西は裏鬼門、北東は鬼門の方位であり、狐は東照大権現の使者とされていることから、何か不吉なことの前兆ではないかと心配した永勝院が天海にお伺いをたてているのである。当時の江戸城の中には孤がいっぱい棲んでいたことがわかって面白いが、大奥の女性たちの迷信深さを伝えるとともに、呪術者・天海の姿を髣髴とさせる。

 天海は、世継ぎが無かった家光のために、「変成男子の法」を修して、家綱を誕生させたといわれる。★変成男子の法とは、懐妊中の胎児を女から男に変える秘法で、院政時代に、天皇や法皇のために、比叡山や園城寺でしばしばおこなわれた。まさに天海は「偉大なるシャーマン」として、徳川王権の内部に隠然と君臨していたのである。・・・以下略・・・

 

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