カウンター 読書日記 <夢幻王権論> 徳川家光の幻視・幻覚
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<夢幻王権論> 徳川家光の幻視・幻覚
 ・・さて、以上の寛永十年と十四年の家光の病状について、王丸勇は病跡学的にみて、躁うつ病であったと、次のように分析している。

 寛永十年九月ごろから同年末にかけての病気は、『蘭館日記』などから考えて躁状態と考えられる。また、寛永十四年の初めから気うつ、即ちうつ状態に陥り、それが九月ごろから軽快に向ったが、年末から正月にかけては、式典には出ずに狩りに出るなど多動的で、うつ状態が治る際、一時反対に躁あるいは軽躁状態を経過するのに似ている。

 躁うつ病では、躁状態の時には爽快な気分となり、自我感情がたかぶり、自信、優越感に満ち、遠慮がなく、行動的になり、★乱酒や女色におぼれやすい。逆らえば不機嫌となり、憤怒して暴行にでることが多い。一方、うつ状態の時には、悲哀、絶望、孤独、厭世、罪業感がおこり、行動も鈍く、自殺がよくみられる。ふつう罹病期間は数か月から一年までが多く、その後は治るが再発をくり返しやすい。人によっては躁状態、あるいはうつ状態のみをくり返すもの、両者が交互にあらわれる場合もあり、家光はこの両極型の躁うつ病であるという。知識階層に多く、発作がおさまると正常になり、人格の変化は残らない。躁うつ病は肥満型の体格に多く、家光も肥満型である。

 さらに寛永十年の家光が躁状態のときに、弟の忠長が自殺しているが、王丸によると、これも兄弟に流れる遺伝的な躁うつ病に原因があるという。忠長が自刃した年には躁状態の周期が起こり、それが悪評となり、また自刃の五十三日前から宝物を焼きすてたという話などから考えると、うつ状態に入らんとし、この時期に多い自殺ではなかったかという。一方、この頃の兄・家光は躁状態にあったので、平素の抑制力がとれて、「思い切った処置」を命じ、両者がマッチしたことも考えられる。いずれにしてもその謎を解くものは、躁うつ病の発作即ち病相と思われる、という。

 ところで、家光の寛永十年の躁状態と寛永十四年のうつ状態の原因について少し考察してみたい。まず寛永十年の躁状態は、前年の★父・秀忠の死と深いかかわりがあるのではないかと思われる。

 寛永九年(一六三二)正月二十四日に秀忠が死ぬと、「御葬礼御法会倹約を宗とし、霊脾一の外何も新に製する事あるべからず……」という遺命によって、二十七日夜、土井利勝ら近臣十人ばかりのみが供奉して、霊柩を増上寺へ移した。しかし、遺命に反して、二月十日から増上寺霊廟の工事がはじまり、二十六日から二十八日まで法会がおこなわれ、二月二十九日には朝廷から勅使が来て正一位、台徳院の諡名をうけ、四月十六日に勅額を下賜され、七月には霊廟が竣工し、七月二十四日には霊廟供養の大法会がおこなわれた。また、九月には母・お江(崇源院)の法会のために十日、十五日も増上寺に詣っており、十月には江戸城の紅葉山にも秀忠の霊廟が竣工し、二十四日にここに参詣している。さすがに疲れがでたのか、十一月七日、「御気色例ならずわたらせ給えば、医官半井驢庵成近 今大路道三親昌まうのぼり……」の記事がみえる。この十一月二十四日は新築の紅葉山霊廟へ詣でているが、それ以外は、毎月二十四日にはかならず芝の増上寺まで御成の行列で秀忠の廟へ参詣に行っているのである。

 年が明けて寛永十年(一六三三)になっても、正月十五日から小祥忌の法会があり、十五日、十九日、二十四日に増上寺に行き、五月、七月にも参詣している。特にお盆がある七月には、増上寺で智恩院門跡の良純法親王と法問をしたばかりか、十七日には上野東叡山の東照社にも参詣し、二十四日には増上寺霊廟にも詣でている。その後、徳川家最大の年中行事である八月一日の八朔の参賀があり、この月には十九日に天守台下の東照社に神位を遷す儀式が天海を導師としておこなわれ、二十四日には紅葉山の霊廟に詣でている。家光が躁鬱病を発病したと忠われる九月十五日以前にも、八月二十九日に「医員秦徳隣有室子宗渭子石初見したてまつる」という記事があるから、あるいは八月末ごろから発病していたかもしれない。

 徳川将軍の葬儀は、一般人とちがって、一年以上もつづくと考えたほうがよい。毎月命日に芝の増上寺まで行く御成の行列だけを考えても、一般人の葬儀とはくらべものにならない大行列である。以上、『大猷院殿御実記』で調べたように、家光の場合、秀忠が死亡してから、各種の儀礼がつづき、翌年のお盆を中心に祭事が多くおこなわれた七、八月をすぎて一安心した時期に発病していることに注意すべきである。

 それは躁状態が、近親者や知人の葬式がしばしば発病の誘因となることが知られており、★「葬式躁病」という病名がついているほどだからだ。この「葬式躁病」という現象について、★木村敏は、ふだんは死のイメージを可能な限り抑圧することにおいて成立している日常性の真只中に忽然と死の影が落ちたとき、人は祝祭の昂揚に身を委せることによって意識をマヒさせようとするものであり、また、死そのもののもたらした過剰な生命力の燃焼とみるべきではないかと説明している。

 ★平山正実も、躁病が年末年始の多忙をきわめる季節行事や出生、婚約、結婚、選挙、葬式などを契機として発生していることを報告しているが、興味深いことは、発生するのは農山村地帯のムラ社会に多く、大都会での臨床体験ではほとんどみられなかったという。お祭り型の躁病のうち選挙躁病を例にとると、衆参両議員選挙、県知事選挙、県会議員選挙など選挙住民が広範囲に拡がっている場合には躁病はおこらない。むしろ村会議員や町会議員の選挙などいわゆる「ムラ」社会として絆がとくに問題になるような時に限って発生するという。このようなことから考えると、人々の思考が求心的・合体的・融合的に働くような社会あるいは共同体において躁病が現われやすいという。

 閉鎖的な共同体という点では、江戸城内は★日本最大のムラ社会だったといってよいだろう。江戸城内での閉鎖的な生活、正月、八朔、節句、月次拝賀、家康・秀忠の命日の紅葉山、東叡山、増上寺の参詣などの祝祭儀礼づくめの職務、それに遺伝的な負因が重なり、秀忠の死がひきがねになって、寛永十年の躁うつ病の躁状態になったのではなかろうか。

 次に寛永十四年(一六三七)に、家光は強度のうつ状態におちいっているが、ここで気になるのが家光がカゼをひきやすい体質だったことだ。

 寛永十年(一六三三)の躁状態に入る契機となった九月十五日は「御咳気」であったが、『大猶院殿御実紀』をみると、寛永十二年(一六三五)四月二十三日と十月二十二日、二十八日にそれぞれ「御咳気」と記されており、寛永十三年(一六三六)二月十七日は「御微恙」、十一月十七日「御咳気」と記されている。翌寛永十四年のうつ状態の時にも、五月三日に「医官・半井驢庵成近、武田道安信重、今大路道三親昌御薬を奉る。今朝いささか御熱気あるよし聞ゆ」、六月二日「いささか御熱のよし聞ゆ」とみえ、やはりこの時もカゼのような病状を示していたのではないかと思われる。

 それは★うつ病とカゼとは密接な関係があるという研究があるからだ。★上田宣子は、抑うつ状態でカゼをたびたび訴えるうつ病患者が多い経験から、うつ病とカゼの興味深い関係について発表している。上田によれば、うつ状態になって頻繁に「カゼ」をひくようになったり、うつ病相期において「カゼ」をひいた後に、抑うつ症状が悪化するという患者が多い。うつ病自体から由来し高頻度にみられる身体症状に、頭痛、頭重感、全身の疲労倦怠感、食欲不振、肩こりなどが「カゼ」をひいた時の症状と似ているので、患者が「カゼ」と訴えることが多い。「カゼ」を訴える患者で感冒薬が効果的だったのは、全身の機能低下のために実際のカゼを合併したと思われる少数で、あとは抗うつ剤の服用の方が、うつ病患者の「カゼ」には有効だったと報告している。

 おそらく七月十四日に、林道春が臨席して、曲直瀬玄理ら四人の官医が集まり、家光の治療法について相談したのも、カゼのような「熱気」に対して薬を与えても、なかなか効き目がなかったためではなかろうか。そういう点からも、寛永十四年の病状は、噪うつ病のうつ状態にあったことを示すように思われる。

 興味深いことは、先の『東照大権現祝詞』で、寛永六年、十二年、十四年に、家光が霊夢を見たことが書かれているが、特に家光が重いうつ状態におちいった寛永十四年(一六三七)には、東照大権現ばかりでなく 八尾の孤や、御神酒をつけて松葉をくわえた神馬などの霊夢をたびたび見ていることである。躁うつ病を発病した家光が、その精神に異常をきたした世界から追い求めたのは、祖父・家康の夢幻の姿だったのではなかったか。
 
 
 家光が祖父家康を強く慕うようになったのは、★両親の秀忠夫妻が弟の忠長を偏愛し、家光は冷遇された。そのため家光は★十二歳の時に自殺をくわだてたこともあった。将軍後継者争いで、家光は忠長より不利であったのを、乳母の春日局が家康に直訴し、家康が家光を推したので三代将軍につくことができたためといわれている。いわば父母に対する愛を、代りに祖父・家康と乳母・春日局に求めたのである。

 ★春日局は稲葉正成との間に三人の男子をもうけながら別れて家光の乳母になり、家光養育のために献身的に一生つかえた女性である。家光が寛永六年(一六二九)に痘瘡にかかった時、春日局は薬と鍼灸を断つことを神仏に誓って祈り、以後、生涯にわたって誓いを守り、家光がいくら服薬を勧めても、がんとして薬をうけつけずに死んでいった。そんな春日局に、家光が母以上の愛を感じたのであろう。 
 
 
 「家光の幻視幻覚」了。

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この記事に対するコメント
沙織さん。
閉鎖空間=江戸城の病理集団は、今で言えば学校知識のみに頭を占領された官僚組織ということになるのでしょうか。
【2008/10/15 21:46】 URL | ひろもと。 #- [ 編集]

ビックリ
わぁ すごいですねぇ~

太字の文すごく勉強になりました。
ありがとうございます。
【2008/10/04 16:56】 URL | 沙織 #- [ 編集]


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