カウンター 読書日記  『持丸長者』-国家狂乱篇
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 『持丸長者』-国家狂乱篇
  ●『持丸長者』-国家狂乱篇
  <あとがき> <続>・・・  

 
  特に、本書第五章でくわしく述べたように、日本は明治維新直後から商人と長者たちを巻き込みながら、朝鮮半島への侵略に手を染めていった。また第一話の[幕末・維新篇】で述べたように、台湾への侵略を大々的におこなった。これらの行動は、当初から、軍人による武力侵略だけでなく、商人が乗りこんでゆく経済的な侵略と並行しておこなわれたのである。その金銭欲が動機となって、あたかも樽の中で酵母がぐつぐつと発酵するように、日清・日露戦争へと発展してゆき、ついには、財閥一族を中心とした満鉄というマンモス会社を隠れみのにして、満州への明確な侵略の第一歩が踏み出されたのだ。
 その結果、本書前半に述べたように、幕末維新時代を通じて、職人技術者と商人たちによってすぐれた努力が払われ、新しい産業を次々と興しながら、それを無にするに等しい蛮行が、同じ日本人によっておこなわれた。敗戦前の最後の数年間には、企業が国家の命令のままに動き、企業としての体を成していない。日本史の舞台から商人がいなくなってしまったかのようである。
 出てきたのは愚かな軍人と政治家・官僚ばかりなのだ。その原因は、どこにあったか。言うまでもなく明治維新の本質と、明治政府要人の傲慢さと、大日本帝国憲法と、帝国議会の独裁制にあった。これに対する批判を始めることから、日本人の歴史意識を変えなければならないことは、明らかである。

明治維新によって軍国主義が隆盛した富国強兵の歴史は、言い換えれば、軍人が最高権威者だったことになる。それは、「士」農工商と同じ階級制度である。維新の志士たちが江戸幕府を批判した言葉は大嘘だったのだ。
このような三百代言どもを偉人に仕立ててきた物言きとジャーナリストが一番の悪なのである。

 加えて日本の軍人は、明治維新以来、一度も日本の国民を守ったことがない、世界でも稀有の珍奇な軍隊組織だ。日本では、兵士をして、「戦って血を流し、捨てられる」存在と見ている。その死を武士道に帰着し、美化して終る。だからこそ、国民を守らずに満足し、特攻で散ることを讃える軍隊になったのである。捨てられる兵士の大半は、貧しい階層から出ているのだ。
 そればかりではない。2001年3月に、アフガニスタン支配勢カ・タリバンが、二世紀に造営されたバーミヤンの巨大石仏を爆破破壊したとき、世界中と共にタリバンを非難した現代日本人が、名古屋城などわが国の貴重な城郭や建築物を自ら破壊に導いた歴史について、マスメディアを含めて、戦時中のわが身の出来事を批判する言葉を吐いたことは、まずほとんどない。城郭は、コンクリートで外見を再現すればよいというものではない。世界遺産を口にするなら、なぜマスメディアは、過去を正視して、その時代の人間を厳しく批判しないのか。日本文化の何も守らなかった人間たちが、「日本を守ろうとしてやむなく防衛戦争をしたのだ」などと、ねぼけた戯れ言を口にするものではない。偉人を持ち上げ、讃える話もよいが、善人の知恵深さは、悪を懲らしめるからこそ、讃えられるのだ。その悪事を語らないのでは、その時に歴史の動きようがない。
 第二次世界大戦中の歴史書や伝記類を読むと、★誰も分らないうちに、いつしか大戦争になっていた、と弁解する言葉によく出くわす。一人前の大人であるなら、このように無責任な言葉を吐いてはいけない。
 これほど明白な歴史の順序があって、なお、日本人がこの歴史をやむを得なかったと弁じ、いま世界で最も兇悪な米軍と手を握りたいなら、日本人には、論理的な思考ができないのだから、これからも、同じことをおこなうに違いない。目の前の現実は、それに近づいてきた。だが、「残念ながら、それはどの民族だった」と悟り、悟りを唯一の款いの違として歴史の扉をとじるのでは、われわれは鎖がからまって身動きできない大と同じ哀れな動物になる。とりわけテレビ局と新間社につとめる人間は、漫然と大衆心理に迎合してよい時代ではない。その大衆を生んだのが、自らの不作為にあったことを自覚しなければならないはずだ。本来すぐれた日本のマスメディアは、今こそ社会の木鐸として知恵をしぼり、戦時中に果たせなかった自らの役割を果たすべき時を迎えたと言ってよいだろう。
 ★この歴史と、目の前の現実を見るとき、まったく同じ心境に達していた人物が、戦時中の日本にいたからである。★桐生悠々である。
 1933年(昭和8年)3月27七日、日本が国際連盟脱退を正式に決定すると、全世界を相手にした本土決戦に備えて、8月9日に第一回関東地方防空大演習が実施され、桐生がそれをあざ笑ったことを、第七章に述べた。
 信濃毎日新聞を退社したあとの彼は、名古屋郊外守山町に移り、読書会を組織して個人雑誌『他山の石』を刊行し、世界の思想を紹介して発禁と戦いながら時局批判を続けた。
 そこで桐生悠々はこう書いた。言いたい事と、言わねばならない事を区別しなければならない。私は言いたいことを言っているのではない。言わねばならないことを、国民として、同時に人類として言っているのだ。言いたいことを言っていれば愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて苦痛である、と。
 ついに病状が悪化した桐生は、1941年9月に『他山の石』廃刊の辞を読者に送った。
 「……ゝ」の世を去らねばならぬ危機に到達致居候。小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」
 ほどなく9月10日、戦時下最大の反骨ジャーナリスト、石川県金沢に貧しい藩士の息子として生まれた本名・桐生政次は、喉頭癌のため六十八歳で死去した。その三ケ月後、日本は12月8日に真珠湾攻撃に突入していったのである。

 桐生悠々の言葉は、愛する日本人に向けた的確無比の警告であった。東京大空襲の12年前に、木造家屋の多い東京が焼土と化し、死者の規模が関東大震災と同じになる凄惨な悲劇を見抜いた。それから12年間という長い歳月、超畜生道に堕落しつつある日本人は何をしていたのか。戦後に一大軍粛がなされる日の到来まで予言したこの人物が、図抜けた天才であったとは思えない。
論理的に思考すれば、これだけのことは、誰にも予測できたはずである。桐生悠々が傑出してすぐれていたのは、道を外れないことに徹し、並々ならぬ勇気をもって意志を貫いたところにある。桐生悠々は死ぬまで、日本民族を見捨てず、再生できるぞと叱咤した。「為せば或る 為さねばならぬ何事も ならぬは人の為さぬなりけり」と、江戸時代に米沢藩・上杉ようざんが語った熱情が思い起こされる。誰にもでき、なすべきことをしない、それが超畜生道だと、桐生悠々は語り遺したのだ。

 道とは何か。武道とは何であろうか。柔道の講道館を創設した嘉絹絵五郎の名を知らぬ日本人はいないであろう。治五郎は、古来柔術と称せられた古来の武道を改良して柔道とした人である。選手二人を率いてスウェーデンのストックホルムに赴き、日本初めてのオリンピック出場を実らせた絵五郎の国際的精神は、どこにあったのか。嘉絹絵五郎は本来、柔道家ではない。兵庫県灘酒造「菊正」醸造元の大長者である本嘉納家・嘉納治郎右衛門一族の嘉納治郎作の三男として生まれ、酒を道る商道が何であるかを知り、東京大学文学部の政治学と理財学、哲学科に学んだ教育者であった。治五郎が参加したオリンピック閉幕三日後の1901年七月三十日に明治天皇が死ぬと、天皇大葬の九月十三日夜、日露戦争の旅順攻撃で虐殺の指揮を執った乃木希典大将が割腹して殉死した。そのとき、「階習打破論 乃木将軍の殉死」と題する社説で、この武士道の悪習を批判したのが、またしても桐生悠々であった。
 軍人は、戦うことが能ではない。幕末には、日本の国防を考えて、幕府が長崎海軍伝習所を設置し、兵術ばかりでなく、若者に広く先進知識を学ばせた。その伝習生となってオランダ人から深く学んだ一人、柳楢悦は、若くして和算に長じ、維背後は海軍に出仕して海軍少将にまでなったが、彼はただの軍人で人生を終えなかった。のちに、明治政府の地租改正を主導した屈指の西洋経済学者・神田孝平と共に、東京数学会社を創立した。ここで、和算の問題を西洋数学で解き、ここから、日本の数学物理学会が誕生することになったのだ。
 女性でも、桐生悠々と同じ鉄のごとき勇気を示した人物がいた。1914年(大正3年)に『カルメン』のハバネラを日本で初演し、日本最高のアルト独唱歌手と讃えられた「声楽の神様」中島兼子は、戦時中の日本軍部の朝鮮侵略行動に強く反発し、軍歌を歌うことをかたくなに
拒み続け、そのため日本では、舞台から完全に追放された。だが兼子は、まったく意に介さなかった。
 軍人の中にも、不屈の抵抗を示した人物がいた。1930年のロンドン海軍条約を批准させた海軍軍令部長の谷口尚真である。連合艦隊司令長官をつとめ、海軍大将にのぼりつめた谷口は、海軍内部の猛反対に遭いながら、軍縮の方向に日本の舵取りをおこなった。続いて翌年、満州事変が勃発すると、陸軍から海軍に支援の要請があっても、「山海関に艦隊を派遣すれば、アメリカとイギリスの介入を招く」と言って反対し、関東軍への支援を拒否し続けた。そのため彼は、海軍大臣の大角岑生(みねお)によって粛清されてしまったのである。
 この人たちは、どこから出たのであろうか。柔道の父・嘉納治五郎の姉・嘉納勝子を妻としたのが、西洋数学の開拓者・柳楢悦であった。その息子・柳宗悦は、朝鮮人による反日暴動となった三・一独立運動を支援し、日本人の非道を強く批判した。反軍アルト歌手・中島兼子とは、その柳宗悦の妻・柳兼子のことであった。柳猶悦の娘・柳直枝子(すえこ)を妻としたのが、連合艦隊司令長官・谷口尚真であった。これを閨閥とは呼ばない。家族である。この強靭な人たち全員に通じるのは、「世界の誰もが認める人間」であろうとした精神の広さである。それが、彼らの日本人としての誇りを、胸中で静かに守り抜いた。
 本来、日本史は、このような人間にこそ、大きな関心を注ぎたい。それが、桐生悠々の果たせなかった、最期の無念の心境であった。
 ほかにも、議会で粛軍演説をした衆議院議員・★斎藤隆夫がいた。東京日日新聞一面に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」と書いて陸軍を批判し、東條英機を激怒させた新名丈夫(しんみょうたけお)がいた。軍人批判日記を書き続けた反骨のジャーナリスト、清沢冽(きよし)がいた。すぐれた精神を貫いた数々の人間がいた。その人びとが、これから第三話の[戦後復興篇】に登場して、立ち上がってくれることに期待しよう。1945年8月15日の戦争終結を告げる天皇玉音盤レコードを守り抜き、NHKラジオで放送した報道部副部長の柳澤恭雄は、NHKに残って抵抗を開始したが、GHQ指令のレッドパージで首切られたあと日本電波ニュース社を創業し、そこに若き獅子たちを育て上げた。今その人たちがわれわれの師となって、すぐれたドキュメントを伝えてくれている。
 戦後は、東京オリンピックと高度経済成長から始まるのではない。明治維新以来77年の栄華も槿花一朝の夢と消え、無残な焼け跡から、日本の商人は再び人生にとりかかったのである,戦後の闇市とは、どのようなものであったのか。しかし彼らの前に立ちふさがっていたのは、アメリカ占領軍であった。

それでも、自由が到来したのである。農地改革がおこなわれ、女性が解放され、財閥解体が断行された。映画館にアメリカとヨーロッパの映画が再び登場し、街じゅうにジャズが流れると、夢のような世界が現われたのだ。
               2007年6月8日  広瀬 隆

 

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