カウンター 読書日記 『持丸長者』・国家狂乱篇(続)
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『持丸長者』・国家狂乱篇(続)
<第三章>  鉄路は伸びる

● 日本最大の産業にのし上がった鉄道 

 ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った初代ウェリントン公爵は、「鉄の公爵」と呼ばれた。これを英語のまま読んだアイアン・デューク号と命名された蒸気機関車が、長崎の大浦海岸に走ったのは、明治に入る三年前、慶応元年(一八六五年)のことであった。走らせたのは、ご存知プッチーニのオペラ『燦々夫人』の舞台のモデルとして名高い、グラバー邸で知られるイギリス人貿易商★トーマス・グラバー(グラヴァー)であった。
 一ケ月にわたっておこなわれた機関車のデモンストレーション運転に、噂を聞きつけた日本人がどっと押し寄せ、狐を馬に乗せたような風聞が嘘ではないと知って驚き、半ばおそれおののいて眺めていたが、しかしやはり機関車が蒸気を噴いて列車を引きながら動き出すと感激し、「おおーっ」と歓声をあげた。日本人が日本で目にした最初の本格的な鉄道がこれであった。
 正確には、★土佐の漂流民ジョン万次郎が、日本人として初めてアメリカで鉄道列車に乗ったのが、その二十年前の一八四五年であった。のちに運命の偶然から、ジョン万次郎一族のある人物が、日本の蒸気機関車を製造して、鉄道界を主導するのである。そのように不思議なことが、どうして起こったのであろうか。ことの順序を追ってみよう。
  帰国した万次郎がアメリカの文明事情を土佐藩主に伝えた一八五三年には、ペリーが浦賀に来航した。それに遅れること一ケ月半後、ロシア艦隊プチャーチンが長崎に来航し、蒸気機関車の模型を船の中で走らせ、この乗り物を日本人に紹介して、いぶかしげに眺める彼らの顔を楽しんだ。ところが翌年に再び来航したペリー艦隊は、プチャーチンに負けじと持参した模型の蒸気機関車の試運転を横浜村でおこない、その鉄道模型を江戸幕府に贈って驚かせた。この模型は遊園地の列車ほどの大きさがあり、実際に蒸気機関車で引いて日本の役人を乗せ、時速三二キロ余りのスピードで走ったのだから、小型ではあっても最初の実物鉄道であった。

 そこで衝撃を受けた肥前佐賀藩の★佐野常民たちが心血を注いで、歯車や内部の配管まできわめて精巧に再現し、蒸気車の模型を製作したのが翌一八五五年、日本人製作による機関車模型の嚆矢となった。
 しかしそれから十年後、グラバーが長崎で走らせたものは、線路の幅がIメートル近く、長さが三〇〇メートルもあり、中国に輸出するため上海博覧会に出品された蒸気機関車を日本に運び、客車三両を引いて走ったのだから、これが正真正銘、西洋文明が日本人を驚嘆させた本物の鉄道であった。かくて蒸気機関車は、陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれるようになった。それでもまだ江戸時代のことである。
 それからわずか三十年後に、鉄道が日本最大の産業になると、誰が予測したであろう。
 明治二十九年(一八九六年)の最初の企業ランクを見ると、鉄道産業が、確かに第一位である。この年はちょうど、大阪と北海道を結んで、輸送の生命線であった北前船が海から姿を消した時期にあたる。★その理由は二つあった。
第一は、西洋式の帆船と蒸気船が広まり、財閥系の日本郵船によって、北前船が輸送力を奪われたからである。第二は、明治五年の新橋~横浜間の開通に始まった鉄道が、のち東京から関東・甲信地方一円に広がり始めた(東京といっても、当時の駅は新橋と上野が起点だったので、大正三年に東京中央停車場が開業するまで東京駅はない。続く明治七年、北前船の起点・大阪~神戸間に始まった鉄道が、京都・大津まで広がった。
 明治二十二年には東海道本線の新橋~神戸間の全線が開通、明治二十四年には上野~青森間の東北全線が開通、さらに明治三十四年には山陽鉄道の神戸~下関間の全線が開通して、本州が北から南まで鉄道で結ばれた。鉄道は人力や馬よりはるかに輸送力が大きく、大型船が入れない内陸まで人間と商品を運び、船より輸送スピードが速い。そのため、各地での商品価格の差がなくなり、北前船の利益が出なくなったのである。こうして明治三十年代をもって、豪商を生み続けた北前船が、その長く尊い役割を終えていった。
 内陸では鉄道が船にとって代り、大量輸送の主導権を握ったのである。序章の二九頁にその明治二十九年の数字を示したが、製造業ではない「運輸・電気・ガス」上位五〇社の公益事業分野を見ると、第一位が鉄道会社で、総資産が九九一九万円に対して、第二位の海運業は二五三九万円であった。鉄道が海運の四倍にまで力を伸ばしたのだ。全製造業の七割を占めて最盛期にあった紡績業(繊維業)五七社は、そのとき総資産四〇一一万円だったので、鉄道会社はその二倍を超える巨大なものでもあった。
 しかしさらに驚くことがある。次の企業ランク統計は、十五年後の明治四十四年(一九一一年)になるが、鉄道が三億五一一九万円に対して、紡績業が一億八二四一万円なので、やはり二倍の比率は変らない。ところがその鉄道会社のうち、たった一社で二億六一四〇万円の資産に達し、鉄道全体の四分の三を占める会社があった。★南満州鉄道株式会社、すなわち「満鉄」であった。ほかに21Iある鉄道会社の総資産を合計しても、満鉄の三分の一、膝の上ぐらいにしか届かない。

 その答は、前の章に述べた。明治三十九年三月三十一日に鉄道国有法が公布されて、全国的な鉄道網が国家に統治され、大手の私鉄路線が国有化されたからである。しかも満鉄が設立されたのは、奇遇にもそれからわずか八ケ月後の十一月二十六日なのである。そのため、民間に残った、か細い鉄道会社に比べて、超巨大なマンモス民間会社となった。それにしても、紡績業全社が束になってかかっても及ばないのだから、満鉄の大きさはとてつもない。 果たして、終戦まで日本企業第一位の座を保った満鉄とは、どのような怪物だったのか。★果たして、国有化と満鉄設立が同時期なのは、奇遇なのだろうか。誰かが、巨大な利益を手にしたのではないのか。
 この三つの疑問を抱いて、鉄道史を追跡しよう。 

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