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落合論文との関連で、『持丸長者』を読む。
●『持丸長者』国家狂乱篇 広瀬隆 ダイヤモンド社 2007.7.26刊  
   
 ●第二章 北海道開拓史

 <石炭・鉄道・鉄鋼の三角同盟>p123~引用開始。

 さて最大の払下げは、何といっても、炭鉄と鉄道であった。
 維新後は、まず明治七年に夕張で石炭が発見されたが、開発はおこなわれず、夕張の北西に隣接する三笠市の幌内炭山に採掘が始まって、ここに本格的な北海道の炭鉱産業が勃興したのである。明治十九年に北海道庁が設置されると、幌内炭山が北海道庁の所管となったのだが、これを担当したのは炭礦鉄道事務所で、その所長に薩摩出身の村田堤が就任した。言うまでもなく、黒田清隆腹心の部下である。二年後には、この官吏・村田が北有社を設立して、幌内鉄道の運営を請け負うことを願い出て、北海道庁がこれを認可した。これが北海道炭礦鉄道の前身となるのである。

そしてその三ケ月後、明治二十一年六月十五日には、岩村通俊が退任して、二代目の北海道長官に永山武四郎が就任したのだが、これがまた薩摩出身であった。先ほど、北海道製麻社長として永山盛繁という人物が登場し、永山武四郎長官の本名・諱が永山盛行なので、おそらく二人は近親者と推測されるが、現在まで確認できない。薩摩イモが、北海道にしっかり根を根っていたことは間違いない。そのうえこの年、北海道庁の技師・坂市太郎が夕張を再調査した結果、夕張で石炭鉱脈の大露頭を発見し、試掘してみると広大な石炭が存在していることが分った。人植者の募集と試掘が始まり、夕張は一挙に活気づいた。
 その年の秋には、余市、古平などの金銀銅鉛鉱山を採掘する北海道鉱山会社が小樽港町に設立され、信州から出た屈指の持丸長者「天下の糸平」こと田中平八らが参加したが、ここに先ほど登場した北有社の村田堤が発起人として名を列し、もう一人の大物となる掘基(ほりもとい)の名があった。これまた薩摩である。

 翌明治二十二年には、村田堤が関与する幌内炭山の産炭量が八万七〇〇〇トンに伸び、九州で三井財閥が経営する三池炭鉱と、三菱財閥が経営する高島炭鉱(長崎)に次ぐ第三位の大炭鉱となった。この石炭は主に小樽に入港する汽船用に供給されたが、のちには独占海運会社の日本郵船を得意先として、中国の上海と香港にまで石炭を出荷して隆盛した。かくてこの年、明治二十二年十一月十八日に設立されたのが、北海道炭鉱鉄道会社であった。設立者は渋沢栄一やハマの豪商・高島嘉右衛門の中央財界有力者が表に出ていたが、社長に就任して実際に経営したのは、先ほど登場した薩摩の堀基であった。そして開拓使時代に堀社長の部下だったのが、北海道長官・永山武四郎という怪しげな関係にあった。
 したがってこの長官、北海道庁の持ち物である千両箱の幌内炭山と幌内鉄道を、同日に新会社の北海道炭鉱鉄道(北炭)にあっさり払い下げてしまった。この払下げの首謀者の一人は村田堤である。手順としては、炭鉱と鉄道を村田の北有社(イモ閥)に払い下げ、北有社が北海道炭鉱鉄道と社名を変更して、国有財産すべてを受け継いだのである。永山長官は、堀社長殿のもとへ払下げ許可書を持参して、鄭重にお願いをしたというから、払下げではなく、払上げと言ったほうがよい。それほど勢力のある堀基は、もともと開拓使時代に札幌本庁で主任官をつとめ、三県一局時代には札幌県令をつとめた人物である。鹿児島県人には聞きたくない話だが、もうひとつ、堀は西南の役で北海道から屯田兵を率いて出征し、郷里に乗りこんで薩摩と薩摩が戦って西郷隆盛軍を打ち破る軍功を立てた、という履歴もある。その屯田事務局長だったのが永山である。
 七年後の明治二十九年には、華族資産を母体に設立されたわが国最大の民間鉄道・日本鉄道会社に次いで、北海道炭鉱鉄道が鉄道会社の総資産ランキングで第二位となった。広大な北海道の鉄道は、それほど大規模なものであった。しかし村田、永山、堀という薩摩人の名前は、長者番付に登場しないのである。黒田清隆一族も一人として長者番付にない。なぜであろうか。

 それから三年後の明治三十二年にこの鉄道株をひそかに買い占めている人間がいた。株式仲買人の丸上商店という聞き慣れない名前のブローカーだった。相場師たちは狐につままれたように見ていたが、一ケ月後に買いが終った。それからほどなく、丸上商店の株が別の名義に書き換えられ、相場師たちが「やはり……」と膝を打った。三井銀行社長・三井高保の名義であった。中上川彦次郎が雇った影武者は三井のブローカーだったのである。こうして巨大鉄道会社は三井の手に落ち、やがて経営権もすっかり支配されると、それから九年後の明治四十一年(一九〇八年)長者番付で、三井高保は岩崎(弥之助・久弥)・住友・三井(八郎右衛門)・鴻池・渋沢・大倉に続いて全国第八位にランクされた。明治四十年に設立された大夕張炭鉱も五年後には三菱鉱業に買収され、三井・三菱の資本下に組み込まれていったのである。
 だが、世の中は甘くない。ほとんどの大手民間鉄道会社の前には、やがて鉄道国有法によって、鉄道線路が国に買い上げられる運命が待ち構えていた。北海道炭鉱鉄道では、会社設立から十七年後の明治三十九年に鉄道が国有化され、北海道に敷きつめた幹線鉄道を国に奪われた。そこから同社は、再出発を余儀なくされ、生き延びる道を切り拓かなければならなかったので、石炭の海運業を活かして、北海道炭鉱汽船に社名を変更して生まれ変ったのである。そして翌年には、イギリスのアームストロング社と共同出資で室蘭市に日本製鋼所を設立し、北海道に鉄鋼産業を生み出す道へと踏み出した。栗林五朔たちによって石炭積出港として栄えてきた室蘭が、鉄の街・室蘭として再出発したのだ。

 のちに日本製鋼の取締役会長に就任したのは、日本の欧米通として知られた★樺山愛輔であった。彼は、函館船渠の取締役をつとめて北海道を知り、フランクリン・ルーズヴェルト大統領と親交し、ロックフェラー財団にも関与して日米親善をめざしたとされるが、その女婿は、終戦直後に吉田茂の右腕となって通産省を設立したとされる白洲次郎である。終戦後に、憲法草案で最も重要な前文の「国民の主権と平等」を国務大臣・松本蒸治が明記もせず、GHQから激怒を買った時、松本と一緒になってアメリカに反撃を誓うほど知性の低い人間が白洲次郎であった。白洲の義弟・松方三雄が総理大臣・松方正義の孫なので、110頁の系図1には、室蘭の日本製鋼会長・樺山愛輔も隠れている。
 ★樺山家も薩摩の出であり、樺山資紀(すけのり)は、日清戦争の勝利で植民地として獲得した台湾の初代総督に任命され、大軍団を率いて台湾に上陸すると、植民地化に抵抗する台湾住民一万四〇〇〇人を虐殺した。その息子として生まれた愛輔は、妻・常子が、明治十四年の政変で大隈重信を閣僚から道放したことで名高い参議の一人、薩摩の海軍大将・川村純義(すみよし)の娘であった。川村は明治四十一年(一九〇八年)東京第二〇位の長者となったが、常子の兄・川村鉄太郎の女婿は、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』に登場したアメリカ通の軍人、オリンピック馬術金メダリストとして欧米でバロン(男爵)西と呼ばれた人気者の西竹一であった。硫黄島で死を遂げた戦車隊長の彼も、松方正義内閣の外務大臣をつとめた薩摩藩士・西徳二郎の息子であり、北海道十勝の陸軍軍馬部隊に在籍したことがある。
 実際の硫黄島の戦闘は、NHKスペシャルが二〇〇六年に放映した「硫黄島玉砕戦~生存者61年目の証言」の通りであり、このハリウッド映画が描いたようなきれいごとではない。現実にあった地獄図と、映画に登場した栗林忠道中将や西竹一に対する英雄礼讃主義は、あまりにかけ離れている(硫黄島は、昔から島民が「いおうとう」と呼んでいたが、戦時中からアメリカが「いおうじま」と呼んでいたこともあって、戦後に「じま」と修正されたが、二〇〇七年六月から「とう」に戻された)。 (続)
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 ★落合論文の中で、キー・パーソンとして扱われている人物の記述の

 周辺を、少しずつ読んでいきます。
 

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