カウンター 読書日記 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)-5
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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)-5
   ●台湾征討軍から始まる
   谷千城・樺山資紀コンビ 


 明治七年五月七日、征討軍の第一陣が早くも上陸し、西郷都督も二十二日に上陸した。以後、総勢三千六百名の兵員が、悪天候と風土病に悩まされながら、原住民を制圧した。六年六月、大久保は清国に乗り込み、談判の後で清国から償金五十万両を得たが、うち十万両は被害弁償金で、同十万両は軍事賠償金だが全戦費の一割にも満たなかった。しかし大久保は、十万両を被害者の遺族に与え、四十万両は清国に返還した。理田は「化外の民たる生蛮の行為について、清国政府が責任を認めたことに満足した日本政府は軍費を清国に負担させることを是とせず、この金は返還する」というもので、各国外交官の賞賛を得た。

 台湾征討軍の司令官(台湾蕃地事務都督)は西郷従道中将、参謀長(台湾蕃純再務参謀)が谷干城少将、その下に樺山少佐がいた(中佐進級の時期は未詳)。海軍では海軍少将川村純義が蕃地事務局出仕に補せられた。土佐藩きっての武人とされた谷は樺山とは同年(天保八年生まれ)で、少時江戸に出て安井息軒に学び、幕末は国事に奔走し、戊辰戦争で功績を挙げて賞典録六十石。同年春の三藩の御神兵献進に加わり初任陸軍大佐、五年九月二日に陸軍少将に進級した時は三土六歳の若さであった。六年に熊本鎮台司令長官に就いた谷は、七年春の佐賀の乱を鎮圧した後、五月には台湾征討軍のナンバー・ツーとして出征した。
 八年六月、凱旋した谷は熊本鎮台司令長官を辞し、後任に野津鎮夫

少将(道貫の兄)が就いた。ところが、野津の後を受けて九年六月司令官となった種田政明少将は、十月二十四日の「神風連の乱」で戦死する。十一月九日付けで谷が熊本鎮台司令長官に再任され、これに先立つ十月二十九日に樺山中佐が熊本鎮台の参謀長に補せられていたので、台湾征討軍における谷・樺山コンビが再び出現することとなった。

 ***(8)-5、完。
 

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