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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)-4
●並々ならぬ機微がある「征韓論と「征台論」
  

 明治六年の政変は、西郷隆盛らの征韓論を大久保・岩倉・木戸らが封じたために生じたものである。征韓論と言うが、表面で争われたのは『国交を促す大使として西郷を朝鮮国に派遣する事の可否である。むろん、西郷を派遣して朝鮮王に開国を説かせれば、因循な朝鮮朝廷と重大な外交紛争が生ずることは想像に難くなかった。その西郷派遣はすで勅裁を得ており、ただ岩倉団の帰還を待ち、彼らに報告したうえで実行する段取りであったが、太政大臣三条実美が優柔不断でそれを押し通せなかったので、争論となった。薩長出身の高官たちは、どちらが正しいかは容易に判断できず、殊に第二級以下の人士はどちらに付くべきか分からず、右往左往した。薩人には、やがて西郷が官職に復帰するものと考えて、現職に止まっていた者も多かった。

  この問題には並々ならぬ機微があるように思う。岩倉・大久保らの主旨が内治の改良を優先することにあったのは、蓋し岩倉使節団を編成して欧米を巡察してきた結果とされている。しかしながら、本当を言えばワンワールド首脳の意思が介在したのではないか。そもそもフルベッキが企画・周旋した岩倉使節団の真の目的は、岩倉・大久保・木戸以下の顕官が欧州各所のワンワールド拠点を訪れて秘かにその首脳にお目見えすることであった筈だ。そして旅行の途次、東京で征韓が論じられているのを知ったワンワールド首脳から、岩倉・大久保に対して、朝鮮問題に関する何らかの指示がなされたのではあるまいか。   
 
 当時の政府は、朝鮮問題のほかに台湾問題・樺太問題を抱えていた。台湾問題は、明治四年、台風により琉球御用船が台湾に漂着し、乗組員が原住民に虐殺された牡丹社事件に始まる。政府は清国に賠償を求めたが、琉球国は薩摩藩に属しながら清国にも朝貢していたので、清国は琉球人を日本国民と認めなかった。事件の根底には琉球の帰属問題が横たわっていたのである。そこで琉球国の宗主国たる薩摩藩から台湾征討が提議され、鹿児島県参事大山綱良も明治五年九月、台湾への軍隊派遣を提言した。樺山少佐は、熊本鎮台鹿児島第二分営大貳心得の身でありながら、積極的に暗躍策謀し、薩摩出の政府高官に建議した結果、十一月に樺山自身の清国・台湾視察命令を取り付けた。これを契機として樺山は以後台湾関係に精通することになる。
 
 征韓派を一掃して実権を握った大久保利通が、内治改良を優先するためとの口先と完全に矛盾する台湾出兵に追い込まれたのは、伊藤痴遊の「明治裏面史」によれば、下記の事情があった。

 西郷が参議を辞して薩摩に帰ったが、西郷が薩摩から連れてきた邏卒隊は東京に残って、公安警察業務に服していた。のちの警視庁に相当するものである。監督の坂本常光は素より西郷信者で、参議・黒田清隆に対し「費用と兵員が問題で征韓論を封じたのならば、我輩に許可を戴ければ邏卒隊を率いて独力で朝鮮を征服してくるから、是非再論議して貰いたい」とねじ込んだ。黒田が「樺太問題こそ焦眉の大事で、放置は許されない。朝鮮を討つ余力があるのなら、むしろロシアと事を構えるべきである」と応えたのは、実のところ樺太問題の処理については、すでに政府内で方針が定まっていたのに、嘘をついて坂本の鋭鋒を樺太に向けさせたのである。諸事他端な折、邏卒隊が遠征するなど到底不可能な情勢が黒田にこの嘘を言わしめたものである。これを怪しんだ坂本は黒田に同道を求め、二人で外務卿・副島種臣に会見するが、副島は黒田の嘘に同調しなかった。そこで坂本は大久保に会い、「西郷の復職か自分の朝鮮征伐のいずれかを認めよ」と迫るが、大久保は取りあわない。すると坂本は、岩倉から「西郷の下野は病気のためだから仕方ないが、朝鮮征討については考慮中だから近日政府方針を発表する」との言質を取り、それをメモにして岩倉に確認を求めた。このメモが台湾征伐の原因となった。
 西郷の今後と征韓諸の先行きを案ずる薩摩健児たちを、坂本が静めて回ったのは、このメモを信じたからであるが、一向に事態は進展しない。業を煮やした坂本が大久保を詰問すると、大久保は「先日、岩倉が応えたのは征韓ではなく、征台の事だと思うが……」と言いだした。メモに征韓とあるのを見せても、「いや、これは聞違いじゃ」と言いだし、「事によると台湾征伐をやるかも知れぬ」と言うので、坂本はそれなりに納得した。しかしながら、台湾征討のことも進展しない。大久保は六年二月から副島外務卿を清国に派遣したが、談判は要領を得ず、七月に空しく帰ってきた。清国政府は福建省附属の行政機関として台湾府を置いていた台湾鳥を「化外の地」と説明したが、これは台湾を清国の実効支配の及ばない無主の地と宣言したに等しい。西郷派と長州人に挟撃されて苦しい国政運営のなかで、大久保はしだいに台湾征討の腹を固めていた。

 六年の歳末、坂本は再び大久保を訪ねるが、大久保は「その時機には沙汰をするから待て」としか言わない。七年三月になっても大久保が確答しないから、坂本は決心し、薩摩から連れてきた三百数名の邏卒を率いて、政府に辞表を出した。大久保はじめ、黒田や西郷従道が宥めても聞かず、薩摩へ引き揚げてしまい、ために市中に邏卒の姿が消えた。

 台湾征討を決意した大久保が閣議に諮ると、参議木戸孝允が「朝鮮出兵を否定しながら台湾征伐するのは矛盾ではないか」と非難するなど、政府部内でも反対が強まった。
長州の第二級高官すなわち山田顕義、島尾小弥太、三浦梧楼などが木戸を支援して動き回る。


ここに於いて、征台論は前年の征韓論とまったく同じで、薩長間の政争となった。すると陸奥宗光ら野心家が機会に乗じて薩長の離間を計り木戸を煽り立てたので、木戸は七年五月、参議兼内務卿を辞職する。代わって内務卿に就いた大久保は木戸の反対を無視し、七年四月、西郷従道を陸軍中将に任じ、台湾蕃地事務都督(征討軍司令官)に袖した。西郷従道は樺山資紀を従えて長崎に至り、出帆の準備をした。薩摩に帰っていた坂本は同志を集め、義勇兵を組織して都督西郷従道の部下になった。
 木戸の辞職により政府部内で政争が起こり、台湾征討を機会に大騒乱に発展する虞が生じたので大久保は五月三日、計画の延期を伝えるため長崎に行くが、西郷はその前に独断でさっさと出航していた。尤もこれには、予め大久保との間に密約があったとの説がある。昨年の征韓が駄目なのに今年の征台が良いとは理屈の通る話でなく、やはり征韓に限ってワンワールド側から抑止指令があったと見るしかあるまい。それとも、大久保が独断で敢行した台湾征伐は、ワンワールドの指令に背いたものだったのか?
 

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