カウンター 読書日記 続・『「兵士」になれなかった三島由紀夫』
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続・『「兵士」になれなかった三島由紀夫』
                 20070717223259.jpg


引き続き『名前のない花』からの引用です。
<一国心中考>
 アメリカの都市部の人々はインテリジェンスに富んでいるが、全土のとくに内陸を回ってみて思うことは大部分の人々はシンプルで子供っぽいということだ。大統領選でケリーの都市部、ブッシュの内陸部という構図が出たのはその意味で非常にわかりやすい。南北戦争もまたそうだがアメリカにはこのように知的な層とシンプルな層との対立があたかも国を二分する対立のように昔から存在する不思議な国である。
 それとともに思うことはこの国の内陸の大部分は土漠(ママ)や砂漠であり、内陸生まれのブッシュが世界を単純に悪魔と正義に仕分けするように、★アメリカの内陸では過度なピューリタニズムがいまだに機能しており、こういった風土からは、えてして強硬で排他的な宗救や抽象思考が発生しやすい。
 その意味でアメリカ内陸の風土はまた中近東のそれと似ており、今日のアメリカ対イスラムの構図は見方によってはそのふたつの過剰な空想的性格がぶつかり合っているとも考えられる。イスラム国に生まれた『千夜一夜物語』、またアラジソの魔法のランプという誇大妄想は砂漠風土ならではの発想だし、件のアメリカ人が固有に持つ全能感も空想的だ。
 アメリカ人の全能的性格は宇宙開発、ディズニーラソド、そして高性能兵器を玩具のごとく使ってバーチャルな殺戮を行う戦争好きな国民性などにも表れるが、イスラム救国においてもいたるところでその誇大妄想という名の魔法のランプの巨人に出会う。
 たとえば私たちが街を歩いていて買い物をする。だいたいふっかけてくるというのは通り相場だが、いつかイランにおいて切れた靴ひもを買おうとしたら、百倍近い値段をふっかけられたことがある。自然という規範によって人間の思考が制御されているインド以東の国々においてはいくらふっかけてもこのような無謀な数字は出てこない。しかも彼らはあのモスリム独特の憤怒の眼光で誇大妄想を押しつけるのである。
 彼の言い分はこうである。
 あんたはこれから何カ月も旅をする。靴ひもが無ければ旅はできないだろう。だからこの靴ひもはあなたの命と同じように価値があるじゃないか。
理屈と言えば理屈である。そして油断しているとさもそれが正論のように間こえていつしか丸めこまれてしまうから用心しなければならない。靴ひもそのものに価値があるのではなく、その付帯した意味や用法に価値があるというのは考えてみればまあそうだなぁと思ってしまうのである。
 そしてこのような場合、あの人を呑みこむような眼光につきあってはいけない。暖簾に腕押しの酔眼で値を叩こう。そしてやがては価格は落ち着くところに落ち着くわけだが、彼らは百倍のものを五十分の一に値切られてそれまでと同じように怒ったような面をしているかというとそうではなく、交渉が成立すると一転、知己の友のようにハグをしてきたりする。それまでの鬼気迫る戦いが何だったのかアホらしくなるほどである。客観的に見ると笑えるほど滑稽な場面に遭遇しているわけだが、彼ら一流のその詐欺師のような駆け引きにつきあいぱじめるといつしか感覚が麻痺し、アリ地獄に巻きこまれたように抜き差しならぬ状態に追いこまれるわけだ。

 サマワに駐屯した★自衛隊と地主の間で交わされた土地賃貸交渉の顛末は、まさにこのアリ地獄そのもので、私は逐一報道される経緯を見ながら「ああ、またやってるなぁ」と妙なことについ頬が緩んでしまった。それとともにあの★純情な自衛隊が丸めこまれるのは時間の問題だろうなと予測していたが、案の定、彼らはわざわざ無償の援助に行ったにもかかわらず、あのただの何もない砂漠の砂に莫大な金を払わされつづけている。
 ことほど左様に、彼の風土の掟や思考の構造に立ち向かうのは生半可な神経では太刀打ちできない。
 かつて私は向こうの聖職者と宗教談義をしたことがあり、仏教のなかに流れる「多神」「寛容の精神」というものを説明した。ふんふんと納得したように聴いていた彼が最後に何と言ったかというと、
 「ということは仏教というのは疲れた考えが支配しているということだな」 である。
 本当に驚いた。
 寛容=疲労! なのだ。
 ★「眼には眼を、歯には歯を」という復讐の等価交換の原則を教千年も貫き、今もまたその原則のなかに生きる彼らにとって、「許す」ということは「疲れ」でしかないのである。
 幸いなことに私たち仏教国はこの度し難い異郷の人々と政治的にも地理的にも長い間距離を保ち、イスラム的な絶対思考と不遇なクラッシュをするのは、せいぜいたまにそこに迷いこんだ私のような旅行者程度で済んでいたわけである。
 しかし★「9・11」以降その関係性と風景は変わった。
 イスラムと正面衝突したアメリカに無条件で追随した日本は、好むと好まざるとにかかわらずイスラムの隣人とならざるをえない時代がやってきたのだ。
 その帰納的なひとつの結果が一人の日本人青年の死(2004年10月)である。この路上に汚物のごとくうち捨てられた死は、最大限に陵辱されていた。
 イスラムの世界では畜生界に突き落とす意味を持つ断頭。   、
 そして血にまみれたアメリカ国旗の包衣。
 かりに一人の青年の軽率な旅程がそのような結果を生んだとしても、そのような「無惨な日本人の死体」を生み落とした日本の戦後政治に怒りと悲しみを覚える。
 加えて小泉首相に言いたい。
 あなたは「世界」というものをあまりにも知らなすぎる。そして、またイスラム世界というものをあまりに知らなすぎる。
 イスラムの人々は、おうおうにして独善的ではあるが、またその言動が強硬な半面、礼節を重んじる人々でもある。この礼節は何によって表現されるかというとそのひとつは、着衣だ。
 フランスにあってイスラムの女性のスカーフ問題が騒がれたように、彼らにとって包衣は単にファッションではない。すべては神に対する礼節にはじまっている。その着衣の思想が他者にたいする礼節となって敷衍するわけだ。 つまり彼らは自分のためにではなく他者を敬うために着衣するのである。
 今回、ビン・ラディン氏がひさしぶりに声明を発表する場面が見られたが、私は彼の着衣を見て驚いた。それはほぼアメリカに対しての声明であったわけだが、彼はサーモンピンクの包衣に純白の法帽という最高の礼節を表す衣装で現れたのだ。このことはイスラムの研究者の間でも話題にもならなかったか、あるいは気づかなかったようだが、彼の民族の懐の深さに感じ入った一瞬だった。
また今回、日本人青年を殺害したグループの声明発表時の、背後に聖旗を、そして黒衣でシンメトリーに居並ぶその姿にも並々でない決意がその姿に表れており、これは非常に危険な状態であることを匂わせたし、そういった場面でも儀式性を崩さない彼らの姿に奇妙な言い方になるがイスラム人の礼節を感じた。
 そのように他者に対する時の礼節としての儀式性や着衣を重んじる彼らに対し、香田証生君が不運だったのは、小泉首相がたまたま兵庫県の台風被災地で日本人青年拘束に対する記者の質問を受けたことだった。このとき日本は洪水や地震という災害に見舞われ、この日本がてんてこ舞いしている時期に突然のごとく発生した人質事件にまたぞろ何をやっているのか、という気分が一般的な日本人の感情だったと思う。その感情を露骨に表したのが小泉首相だった。災害現場での日本人記者の突然の質問に「テロには屈しない」と吐き捨てるように言い、そのままそっぽを向いて歩きはじめたのである。★しかもその姿は手軽な作業服のままだった。かりに小泉首相が言うように相手がテログループであったとしても、彼らは儀礼的な姿で小泉首相に声明を出したのである。
それに対し、ほとんど犬猫をあしらうような着衣と態度で声明を唾棄したこの一瞬、ほぼ証生君の運命ぱ決まったと言える。
 運命が決まったということは、彼の処刑が決まったということのみをさすのではない。今日の日本の置かれている立場、というより小泉首相個人の置かれている立場からするなら、グループの要求に応じて自衛隊を撤退させるということはほぼありえない。したがって、前回の日本人拘束のようにダループが身代金目的ではない以上、証生君が処刑されるであろうことは動かしようがない結末だったのだろう。
 私の言う、運命、処遇とはその屍の姿にある。
 一人の日本人は考えうる限り、最大限の恥辱の姿で殺されたのである。
 彼(小泉首相)にあの時、記者のイレギュラーな質問に対し、ちょっと待てとそれを制し、官邸に帰ってのち、あらためて彼が衣服をフォーマルなものに着替え、日本人記者団に向かってでぱなく、グループに向かって、なぜ私たちがイラクを撤退できないのかを(かりに彼らがそれを欺瞞と受け取るとしても)説明すべきだったのだ。
 確かにそれでも証正君は殺されたかもしれない。
 しかしあそこまで憎悪と恥辱にまみれた無惨な死体にはならなかった可能性もある。
 香田証生君が単なる一個人でなく、一人の日本国民であるという視点に立てば、その死によって世界における日本人の立ち位置が暗示されたということに他ならない。
 ***引用終わり。
 
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