カウンター 読書日記 吉薗周蔵の手記(8)-2
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吉薗周蔵の手記(8)-2
  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (8)ー2 

  ●「長州ファイブ」とワンワールドの関係
 江戸時代主として民営であった造幣事業は、近代国家では民営は馴染まないが、ここにもワンワールドの匂いが濃厚に漂う。大阪造幣局の起源は明治元年の貨幣司で、翌年2月に造幣局となり、知事に甲斐九郎が就いた。3月には大蔵省造幣寮となり、4年に操業を開始し、10年に造幣局と改称される。造幣印刷機はイギリス製で、それを香港から買い付けてきたワンワールドの政商グラバーが、造幣技術の指導のために香港印刷局長ウイリアム・キンダーを引き抜いてきた。キンダーは元陸軍少尉で、れっきとしたメーソンである。政府はイギリス系の東洋銀行に造幣工場の運営を委託し、キンダーを工場長とした。
 長州ファイブの一人遠藤謹助は天保7(1836)年の生まれ、井上勝よりも7年の年長で、文久3年の密航時には27歳であった。英国では化学と造幣術を学んだが、肺結核のため慶応2年に帰国した。同年に行われた英国のキング提督と毛利敬信父子との会見では、井上馨とともに遠藤が通訳に当たった。明治元年に兵庫運上所司長を拝した遠藤は、翌2年3月に退官するが、10月には民部省に入って通商大佑に就き、3年6月には通商権正に昇進した。

 明治4年9月から5年2月までの半年間と、明治6年6月から10年1月までの3年半の間、造幣頭は不在で、御雇い外人キンダーが工場長として工場運営を任され、日本側の実質的なトップは造幣権頭の遠藤であった。明治3年11月に造幣権頭となった遠藤は、7年7月にキンダーとの不仲から造幣局を去るが、その直後に政府に建白し、東洋銀行との契約を解除せしめ、且つキンダーを解雇せしめた。
遠藤は14年11月に造幣局長として復帰し、、以来制度の変遷で官名が変わることがあったが、26年6月まで12年間、実質的に造幣局長の地位に在り、権頭時代を含めると16年にも及ぶその経歴はまさに「日本造幣事業の父」と呼ばれるに相応しい。

 造幣局発足時からの歴代トップ(造幣頭・造幣局長)と遠藤謹助との関係は表の通りである。表に見る通り、のほかには井上馨、伊藤博文、井上勝と、長州ファイブのうち山尾を除く四人までが造幣事業に携わっている。長州ファイブ以外の造幣頭(局長)は、馬渡悛偶・石丸安世と数日間だけの大野だけであるが、三人とも人名辞典に名を残していない人物で、経歴は分からない。長州ファイヴとワンワールド結社との関係は今から他書により証明されるだろう、本稿では深追いしないが、造幣事業がワンワールドの範疇にあるのを、右の人事は示唆していると思う。

 郵便事業も江戸時代は民営の飛脚であった。明治4年7月29日、大久保利通の推薦により和歌山藩から浜口儀兵衛を召して初代駅逓頭とした。浜口の着任早々の8月15日、前年6月から欧州視察に出ていた駅逓権正・前島密が帰国し、浜口の郵便事業に対する見解を問う。浜口が民営を論ずると前島は激しくこれを反駁、大蔵大輔井上馨に自らを駅逓頭とするよう直訴し、8月17日を以て二代目に就いた。浜口は故山に帰り、紀州藩大参事となる。前島は新潟人だが、これを見ても長州ファイブの系列に属する帰化長州人というべきであろう。

 
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