カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)ー1
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)ー1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)
 日本近代化事業の重要場面に差す「ワンワールド」の影

★井上友実と「日本鉄道事業の父」井上勝

明治維新の最大の人物の一人でありながら茫漠として実像の掴めない吉井友実を調べていると、近代的事業の中でも鉄道と貨幣鋳造、駅逓などの事業がワンワールドとの関連が深いように思えてくる。鉄道といえば 「日本鉄道事業の父」と呼ばれて、今も東京駅頭に銅像が立つ井上勝が、ワンワールド一員であったことは間違いない。
井上勝は前月号で紹介した兵学者武田成章の弟子であった。武田は文政10(1827)年生まれの旧伊予大洲藩士で、緒方洪庵の滴塾で蘭学を学び次いで佐久間象山の門弟となり、 洋式兵学を学んだ。象山の推挙で幕府に出仕し、函館開港に際してペリー提督の応接員として函館に派遣されたが、そのまま同地に留まって、函館奉行の下で諸術調所教授となった。函館時代の武田の弟子には井上勝のほか、「日本郵便制度の父」と呼ばれる前島密(のち男爵)がいた。
 井上勝は長州藩士出身で、天保14(1842)年生まれ、実父は藩の重職にあった勝行である。安政2年、相州警備に行く実父に従い、2歳年上の伊藤博文と知り合う。安政五年、15歳にして長崎海軍操練所に学び、翌年江戸にて砲術を学んだ。作間芳郎『関西の鉄道史一蒸気車から電車まで』には「長崎の海軍伝習所に藩から派遣され、その後長崎や函館で英語を学び……」とあるから、函館に脚を延ばしたのは、砲術習得のために武田門下に入る目的だが、英語履修もしたのなら、4年後「長州ファイブ」の一員としてイギリス密航した際にはさぞ役立ったであろう。
 因みに、英語・蘭語・仏語など語学に秀でた武田成章は、兵学者と呼ばれているが、本領は砲工部門であった。この部門は、陸軍の中でも特にワンワールドが関与する領域である。上原勇作が少年時代に武田の塾に通ったのも偶然ではなく、陸軍幼年学校長の武田を善く知る教導団長高鳥鞆之助の計らいと思える。理由は高島が吉井を通じてワンワールドに加入していたからで、武田も緒方洪庵の線でその道に入ったものと見られる。
 長州ファイブとは文久3(1863)年5月、長州藩を脱藩して渡英した志道間多(後の井上馨1835~1915)、山尾庸三(1837~1917)、伊藤俊輔(後の博文1841~1909)、遠藤謹助(1836~1893)及び野村弥吉(後の井上勝・1843~1910)のことである。翌年、志道と伊藤は四カ国の下関砲撃を防止するため帰国するが、他の三人は残留する。
 野村弥吉(在英中復籍して井上勝)はロンドン大学で採鉱・鉄道を学び、明治元(1868)年1月に5年ぶりで帰国した。翌2年、右大臣三条実美邸において、大納言岩倉具美・外務郷沢宣嘉と英国公使パークスとの間で鉄道起業の会談が行われた際、民部郷大隈重信・大蔵小輔伊藤博文も列席したが、通訳をしたのは洋行帰りの井上勝であった。同年10月、井上勝は井上馨の後を継いで大蔵省造幣寮造幣頭(造幣局長に当たる)に挙げられ、民部省鉱山司・鉱山正を兼ねた。造幣頭を辞めてから鉄道事業に打ち込んだ井上は、明治4年に鉄道頭に就き、翌年には新橋-横浜間で日本初の汽車を走らせる。後に鉄道局長官になった井上は、その功績により明治20年、子爵を授爵する。また井上は、小野義信・岩崎弥之助とともに明治24年、火山灰土の原野を開墾し欧州農法に基づく小岩井牧場を創立したことでも知られる。
日本の鉄道事業は、西南戦争後の財政危機から、鉄道民営策が検討された。これに対して工部少輔兼鉄道局長兼技監だった井上勝は鉄道国有主義を持し、明治14年、工部卿佐々木高行に対して「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」を提出し、民営鉄道の利益優先主義は日本の鉄道の理念に反するとの主旨を述べた。政府内はもともと鉄道国営論が強く、鉄道開設の準備として東京―高埼間の測量から始めていたが、西南戦争後の財政難で工事の着工が遅れたため、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きが生じ、14年(1881)8月1日、岩倉具視を始めとし、華族などが参加して日本鉄道会社が設立された。宮中勤め一筋だった吉井友実が12年に工部小輔・同13年に工部大輔(国交省次官に相当)を兼ねた事情は未詳だが、明治政府にて極めて重要な意味を有していた鉄道民営化に関したことは確かで、15年に宮中から出て日本鉄道会社の長に就く。日本鉄道は川口―前橋間から建設を開始し、16年7月28日、上野一熊谷間を開業し、その後も路線を増やしていった。この2年間に鉄道事業が軌道に乗るのを見た吉井は直ちに辞職し、17年7月に伯爵に叙されると同時に元の宮内大輔に戻り、24年までその地位に在った。宮中奉仕に終始した吉井が例外的に工部(建設)行政と鉄道事業に関与したのは、ワンワールドからの要請に応えたものだろう。
 

 *******************
  <追記>
 広瀬隆の新刊『持丸長者 国家狂乱編』(ダイアモンド社2007.7.26刊)に、
 ★第三章 鉄路は伸びるー「鉄道の父」井上勝として、興味深い一文の記述がある。
  御参考までに。
 


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