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生きてあるものと・・・
 ● 幾度となく、なにかにつけて、そこに立ち戻る<場所>や<書物>というものがある。

 松岡正剛著・『空海の夢』もそういう一冊である。
 と言っても、繰り返し読む章は限られているのだが。 
 第4章 「意識の進化」と、以下に紹介する第28章がそれである。
 今日、何度目になるか?先ずとにかく読んでみる。

   ************************

 <28> 想像力と因果律

 「われ永く山に帰らん」と言って空海は死んでいった。終生ヤマに憧れた空海がヤマに戻るにあたって弥勒菩薩を重視したことはよく知られている。入定にあたって断穀修行をしたことも、『御遺告』の「われ、去んじ天長九年十一月十二日より、深く穀味を厭い、もっぱら坐禅を好む」の一文によってうかがえる。その空海が即身仏(ミイラ)をはたしたかもしれないこと、高野山奥ノ院にいまなお生きつづけているかもしれないことなども、多くの伝説につつまれたまま今日に伝わっている。藤原道長は『栄花物語』に大師入定中の光景を目撃したとさえ書いている。こうした空海入定伝説のあれこれは、それだけで一冊の書物となるほどに興趣に富んでいるのだが、私はこの本ではそれらについてまったくふれないことにした。  

 
  そのかわり今日におよぶ弘法大師の全伝承に敬意をこめて、数学者ヘルマン・ワイルの次の指摘をここに書きとめておくことにする。「現代におけるいっさいの矛盾は生きている者と死んでいる者との対立にある」生きてある者こそが、死んである者との宥和をはからなければならないということだ。     
 ヘルマン・ワイルの言葉を私なりに発展させると、現代の矛盾を象徴するのは「想像力と因果律の対立」ということになるのではないかとおもう。あらゆる対立はせんじつめればこの基本的な対立にさかのぼりうる。これをわかりやすく幻想と現実の対立とみなしてもよいが、それではやはり厳密ではなくなってくる。
 ただ幻想がつねに時代のイメージの先頭に立つことによって現実の方向を変えてきたことは認めておかなければならない。荘子の胡蝶、アマデウス・モーツァルトの魔笛、ヴィクトル・ド・ブロイの物質波、マルセル・デュシャンのチョコレート粉砕器、スタンリー・キュブリックのモノリス等々……。これらは幻想の現実にたいするあきらかな勝利を物語る。そのみずみずしいイメージを見ていると、われわれが幻想をもたずにはいられない生物であったことがよくわかる。・しかし、現実もまた幻想にまして貪欲だったとも言わなければならなかった。国家をはじめあらゆる幻想を呑み込んで、これを幻想の座から引きずりおろしてきたのはほかならぬ現実力というものである。幻想と現実はこうして一見対立しているかにみえて実はどこかで主客を入れ替えてきたとも言うべきなのだ。 

  
 想像力と因果律の対立は、現代におけるあらゆる現場を襲っている。人々が奔放なおもいや自由なねがいを実行に移そうとすると、その多くが社会史の築いてきた力の関係によってはばまれることは誰もがよく知るところである。そこで人々はしかたなく因果律の範囲内で、因果律のかたちにあわせた想像力でがまんすることになる。あとは実行をまったくともなわない想像力が文化をうめつくす。
 かならずしも社会史や文化史に責任があるわけではない。その証拠にはもっと残酷なことは人々の頭の中でおこっている。あれこれのおもいをめぐらしているその頭の中で、実行に移せない想像力があまりに何度も同じ空想的行為をくりかえしているうち、それはもはや想像力とはよべない悪夢と化していることがあるからだ。個人的な想像力と社会的な因果律の対立も深刻であるが、一人の心境に出入りをくりかえすあくことのない″想像力を失った因果律″の動向も、もっと深刻である。これは「自己イメージの対立」という生物界では人間のみがもっている怖るべき矛盾というべきである。一部の人々はその度重なる内圧の加重に湛えられなくなってさえきているほどだ。


 本書において、明恵上人が夢にみた空海の眼球に映る光景を擬(もど)きつつ、右往左往をしながらも見えてきたこととは、一口に、そこでは「想像力と因果律の宥和」こそが懸命に追求されていたということだった。これは想像力と因果律がさかしらに対立する現代の日々に身をおく者にとってはたいへんに衝撃的である。われおれは、古代ヒンドゥイズムやブッディズムの者から、また神仙と陰陽のタオイズムやそれらの密教化の過程にたずさわる者から、あらためて何を学ぶべきかを検討しなければならなくなっている。かれらは想像力の根拠を自己のみに求めず、因果律の脈絡に関してもたった一人の自分のせいだなどとは考えなかった。想像力の根拠や因果律の脈絡は、ヤマやサトとともに、火や水とともに、如来や菩薩とともにずっと広く共有されていた。もし想像力と因果律が対立することがあったとしても、それはヤマとサトの、また火と水の対立としても物語ることができるようになっていた。

 宗教とは、ある意味では想像力と因果律を共有することである。それは如来や菩薩とともに共有することでもあり、また、四国の巡礼にみられるような人々のあいだでの共有でもある。それが生きてある者と死んである者とのあいだにおける共有にまで進んだときに、宗教ははじめて「生命の海」をもつことになる。空海は、そのことを「即身」というふうにみた。

 これで私の〈空海の夢〉はひとまず終りである。夢はどこかでさめるものだ。そこで、以下は短かい付録にすぎないのだが、ずっと前に〈ホワイトヘッドの夢〉という計画をたてたときのノートの一部がどこかで空海の「即身」の考え方に交錯しているようにおもおれたので、最後の最後に二人の夢を結んでおくことにした。・・・(続)
 

★この本の構想・執筆に、松岡氏は、およそ二年くらいのめりこんでいたと、刊行当時深夜のTELで
 話したことがある。
 もちろん、工作舎・松涛時代のことだが。(最近のHP、「千夜千冊」を覗くと「約一年」
 とあるが、松岡氏の照れか、著作にかかった期間のことだろう)。


 ★ http://www.eel.co.jp/03_wear/02_selfread/kukai01.html
   で、『空海の夢』について語っている。 
   自著について松岡氏が語る、画期的というと弱いか・・
   「驚くべき」企画と決意です。 


 
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