カウンター 読書日記 原爆投下について(11)
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原爆投下について(11)
  ・・トルーマンはもちろんこの抗議文に回答しなかった。日本政府もアメリカの占領を受け入れた後、アメリカの安全保障体制の庇護の下に入り、また冷戦が到来してからは、原爆投下の件でアメリカを非難するのは都合が悪くなり、この抗議文はいわば歴史の芥箱の中にほうり捨てられてしまった。★この抗議文以降、日本政府が原爆投下に関してアメリカ政府に抗議をしたことはない。
 このように抗議した日本政府自身が、戦争の法規に違反する非人道的行為を行ったことはもちろん事実である。1937年の南京虐殺、悪名高い七三一部隊による細菌戦争の人体実験、バターンでの死の行進、連合国捕虜の処刑・虐待など、日本車の残虐行為の例は枚挙にいとまがない。しかし、こうした行為にたいして日本人が負わねばならない道徳的責任をもって、日本政府が原爆投下に抗議することはもってのほかであるとする議論は成り立たない。倫理的責任は相対的なものではなく、絶対的な価値だからである。すでにまったく忘却されたこの日本政府の抗議が再考されなければならない。
 アメリカ人は、広島・長崎への原爆の投下は日本を降伏させるために必要であり、正当化されるという神話にしがみついて自己の倫理的責任を回避することはもはやできない。修正主義歴史家の主張はしばしば誤っており、史料の読み方にも恣意的な傾向があるにせよ、彼らがアメリカの良心の問題を提起したことは高く評価されるべきである。
 アメリカの名誉のために、アメリカ人は原爆投下はアメリカの歴史の負の遺産であることを直視しなければならない。ここにこそアメリカ人の尊厳がかかっている。
 

 ● <スターリン主義の過去の克服>

 ソ連時代のソ連の歴史家も、そしてまたソ連崩壊後の愛国主義的歴史家も、ソ連が中立条約に違反して日本にたいする戦争に参加したことは、太平洋戦争終結を決定し、アジアの諸民族を日本の軍国主義から解放し、ソ連に属する領土を返還させた正当な行為であると論じる。しかし本書は、スターリンが対日戦争を遂行したことは、帝国主義的な地政学的利益の追求が主要な動機であったことを明らかにしている。
 スターリンはその帝国主義的政策をマキアヴェリ的な冷酷さ、欺隔、狡猾によって推し進めた。その結果、対日参戦によって、スターリンは必ずしもすべてではなかったが、彼の欲した領土をほとんど自己の支配下に置くことに成功した。北海道侵攻を試みようとしたこと、中ソ友好同盟条約締結以前に戦争を開始したことなどをあげれば、ヤルタ協定が必ずしも遵守されたとはいえないし、それどころかスターリンにはヤルタ協定に定められていない領土に侵攻する意図があったのは間違いない。結果的には、ヤルタ協定の条項は大体において守られたということができる。だが、歴史的には完全に日本の領土の一部であった南クリールを占領することによって、スターリンは日本とのあいだに「北方領土」問題を発生させ、戦後の日ソ・日口関係に今日にいたるまで修復することのできない溝を作りあげてしまった。
 現在なお、多くのロシア人は、ロシア政府の公式見解と同様に、太平洋戦争におけるソ連参戦は、日本に分捕られたロシア固有の領土を回復するために必要なことであったという神話にしがみついている。
 ソ連の日本にたいする戦争への参加は、ファシズムと軍国主義にたいする連合国の戦いに同じ思いで参加したというより、むしろスターリン体制の残酷な政治の一環として捉えるべきであろう。スターリンの極東での帝国主義は、国内での粛清や集団化と比較すれば、最悪の犯罪であるとはいえないが、それは東欧を自己の支配下に置いたことと比較し得るスターリン外交の一例であった。騙されたほうが馬鹿だったという論も成り立つし、また、日本外交の無能はそれ自体として問題にしなければならないけれども、ソ連政府が日本を騙して奇襲を企んだこと、また、日本の窮地と中国の弱みを利用して領土と権益を拡太したことは、ロシア人が誇りにすべきことではない。
 ソ連崩壊後に生まれた新生ロシアがスターリン主義の残滓を取り除き、新しい外交政策を展開するためには、日本との関係を修復する目的からばかりではなく、ロシア人が自己の尊厳を取り戻すために、ソ連がどのように太平洋戦争に参加したかを批判的に検討しなければならない。

 ● <日本人の被害者意識>

  8月15日から9月5日の混乱した時期に、満州、朝鮮、樺太(サハリン)、千島(クリール)でソ連軍の侵攻にあって、命からがら逃げ惑う民間の日本人や囚われの日本兵自身のほかは、そうした彼らに思いを馳せる本土の日本人は少なかった。いかにして目本の終戦を混乱なく行うか、そのことに忙殺されていた日本の為政者は、ソ連による南クリールの占領は大西洋憲章とカイロ宣言に違反するものであると言って抗議する余裕はなかった。しかし、戦後まもなくソ連に不法に領有された領土の返還運動が政府の支持を受けて組織された。しかし、ソ連との「北方領土」問題は、たんに領土問題ではなく、日本が、まさにその斡旋によって戦争を終結しようとする最後の頼みの綱としてソ連を頼りにしていたときに、当のそのソ連に不意打ちをかけられて攻撃されたこと、64万の日本人捕虜として捕えられて10年以上もの長きにわたって過酷なソ連辺境の強制収容所で強制労働をさせられたことなど、じつにソ連にたいする根深い反感を映し出してきたものであった。

 ソ連の参戦とともに、アメリカによる広島と長崎への原爆投下も、日本は不条理で許しがたい攻撃を受けたという感情を日本人にもたらした。プリンストン大学の社会学者ロズマンが言うように、「北方領土症候群」と「ヒロシマ症候群」は形を変えた日本のナショナリズムであり、日本人も戦争の被害者であったという被害者意識を植えつけたのである。そしてこの被害者意識こそが、日本人が日本の過去の軍国主義、植民地政策、侵略を直視して、真摯な倫理的責任を日本人のあいだで共有することを阻んできた。
 8月14日にいたるまで日本の為政者には、ドイツ降伏時、沖縄の敗戦の時、ポツダム宣言が発表された時など、戦争を終結させる機会が幾度となく存在した。そのつど、日本政府は戦争終結の決定をしなかった。また、それができないほどに政治体制が麻痺していた。しかし日本では、ソ連の「火事場泥棒」のような振舞いやアメリカの原爆投下を非難する声はあっても、戦争の終結を遅らせた日本の指導者の責任にたいする批判はあまり聞こえてこない。もし、日本政府がもっと早い段階でポツダム宣言を受諾して戦争終結の決断をしていれば、原爆もなかったし、ソ連参戦もなかったであろう。これは、必ずしも「ないものねだり」ではない。実際に、佐藤尚武大使、加瀬俊一スイス公使、松本俊一外務次官などは、これを主張していた。
 日本国内の政治決定過程ではこのような政策をとること、が不可能であったというのは、指導者の主体的な責任を政治機構の不備にすりかえる議論である。そもそも政治指導者の指導力とは、機構の制約を超えて発揮されるものである。とりわけ緊急事態においてはそのような指導力が要求される。鈴木、東郷、木戸、米内、そして天皇自身を含めて、原爆とソ連参戦という二つの外圧があるまで、決定的な行動をとらなかった日本の指導者の指導力の欠如こそが、トルーマンの原爆投下とスターリンの参戦以上に、回避できたかもしれない戦争の大きな惨禍をもたらした最大の理由であった。

  ● <終戦と天皇>

 戦後日本において、昭和天皇は日本国家と日本国民を救った救世主とされてきた。日本の終戦に天皇が果たした役割はたしかに決定的であった。天皇の積極的な政治過程への関与がなければ、はたして日本が戦争を終結できたかどうかは疑わしい。内閣と最高戦争指導会議は絶望的に分裂しており、決定を下すことが不可能な状態であった。天皇のみがこの政治的機能の麻痺状況を打開することができた。二つの御前会議での天皇の聖断は日本の戦争終結のためにもっとも決定的な要因であった。

 しかし、麻田が主張しているように、8月6日の広島への原爆投下の時点から「彼は最たるハト派として、和平への強い意思をよりいっそう明らかにしていく」という議論には与しがたい。天皇は他の日本の指導者の大部分とともに、ソ連参戦にいたるまではポツダム宣言を受け入れることを拒否して、ソ連の斡旋による戦争の終結に望みをかけていた。ソ連が参戦して初めて、天皇はポツダム宣言の条項を受諾して戦争を終結する意思を固めた。しかし、★天皇がなぜこの決定をしたかについては、日本ではあまり詳細に検討されていないように思われる。この問題はタブーなのかもしれない。しかし、本書は、ポツダム宣言が発表されたときからソ連が参戦するまでの重要な期間に、天皇は積極的に政治過程に関与することがなかったことを明らかにしている。
 確かに8月9日にソ連が参戦してからは、天皇はより積極的に政治過程に関与をしはじめる。しかし、天皇の動機については、より詳細な分析が必要である。しばしば引用されている「余の一身はどうなろうとも」戦争を終結することによって、日本国家を救い、国民を救うことが天皇の意思であったという論は、木戸をはじめとして、天皇制を救うために天皇の自己犠牲の精神を強調した意識的な証言であった。天皇の最大の関心は皇室の安泰にあった。しかし、本書ですでに述べてきたように、天皇は8月9日から10日の段階では、皇室の安泰に加えて、明治憲法で保障されている天皇の統治権をも維持する希望をもっていたと思われる。

 8月9日から10日の御前会議で、平沼はこのような危機を招いた天皇の責任に鋭く言及した。近衛もそうであったし、皇室のなかにも、あるいはグルーのように天皇制の維持を擁護したアメリカの日本専門家のあいだにも、昭和天皇は、「昭和」の意味する啓蒙的な平和とは程遠い、動乱に満ちた昭和の暗い過去を清算するために、戦争の終結の後に退位すべきであると論じた人はいた。阿南の自決が、日本帝国陸軍の死を意味したように、★昭和天皇の退位は、昭和時代とのきっぱりとした訣別に役立ったであろう。昭和天皇が退位せずにその地位にとどまったことは、日本の戦争責任を曖昧にし、日本が過去と正面から向きあうことを妨げる大きな要因となった。
 太平洋戦争終結のドラマには、英雄もいなければ、悪者もいない。これに関わった指導者たちは、生身の人間であった。言いかえれば、それぞれの欲望、恐怖、虚栄心、怒り、偏見をもって決定をなした人間たちのドラマであった。一つの決定がなされるごとに、それ以降の決定の選択肢が狭まっていった。そして最後に、原爆が投下され、ソ連の参戦がほとんど不可避になった。このようにドラマが終わらなければならなかったのは、決して宿命なのではなく、指導者たちは異なる決定を行い、異なる終結をなすことも可能であった。しかし、彼らはこの選択をしなかった。
 したがって、太平洋戦争終結の負の遺産はわれわれに残されたのである。われわれにはこの負の遺産を克服する勇気があるであろうか。(完)
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