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二つのH・ノーマン像
 ★以前(6月1日)の記事の関連で、記しておく。
 http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/20163470.html

 <二つのノーマン像>とでも題しておこう。

 先ず、『近衛文麿黙して死す』(鳥居民 2007.3.28 草思社)の第二章より、引用する。

  ********************
●ノーマンと対敵諜報局
ノーマンについて述べよう。
 ポール・ニッツを知る人は少ないだろうが、昭和史に関心を持つ人なら、ハーバート・ノーマンを知らない人はいない。かれの著作はすべて邦訳され、かれの故国では出されていないが、日本では全集も刊行されている。そしてかれの著作、たとえば『日本における近代国家の成立』を大内兵衛が褒めれば、丸山真男が称賛し、褒めない人とていない。かれの伝記を書いた人もひとりにとどまらない。中薗英肋、中野利子、工藤美代子といる。トヨタ・カナダの社長だった中谷義雄は、日本とカナダとの友好のためにノーマンのドキュメント・フィルムをつくった。かれに敬意を払う日本人がいまなお多いことから、東京のカナダ大使館はそれに応えて、大使館付属の図書館を2001年に「E・H・ノーマン図書館」と命名した。
 もちろん、ノーマンに敬意を払う人ばかりではない。前出の工藤美代子は近衛文麿の伝記を書いて、ノーマンの「仮面の下にある目はスターリンの方に向いていた」のではないかと疑惑を語っているし、政治学者の中西輝政は「ノーマンが日本にもたらした害毒は計り知れない」と一刀両断にした。
 さて、ノーマンの賛美者が、できれば避けて通りたいと望んだかれの生涯の一時期、数カ月のことを語らねばならない。
 昭和20年9月、ノーマンはマッカーサーの総司令部参謀第二部内の対敵諜報局(CID)にいた。その機関のボスはエリオット・ソープ代将、ノーマンは調査分析課長であった。
 CID、対敵諜報局はどのような仕事をしていたのか。その教カ月前まで日本に存在した陸軍省の軍事資料部が同じ仕事をしていた。軍事資料部は国内の思想、政治の監察隊だった。昭和15年には、三国同盟の締結に反対する人びとを内偵し、昭和19年から昭和20年前半であれば、反陸軍と戦争終結のために動いていた近衛文麿と吉田茂、がれらに協力する人びとに目を光らせ、密偵を潜り込ませ、作成した資料を兵務局に送り、憲兵隊に逮捕させるということもやっていた。昭和20年9月からノーマンがやったことにほかならない。
 ノーマンはカナダ人である。日本に派遣された宣教師の息子であり、軽井沢で生まれた。カナダ、英国で学び、ハーバード、コロンビア大学で日本史を専攻し、カナダ外務省に就職した。ケンブリッジ大学留学時代に共産党に入党していた。かれが入省にあたってその経歴を隠したのは、どうしても外交官になりたかったからなのか、それともそのときもソ連のために活動をつづけていたからなのか、そのどちらなのかはわかっていない。
 外務省入りした翌年の1940年に、かれは駐日公使館の書記官となって日本に戻った。戦争がはじまる気配で、両親はカナダに帰国した。1941年の7月にノーマンは夏期休暇をとり、軽井沢に家を借りた。宣教師であるかれの父親を知っていた羽仁五郎と再会した。羽仁はコミンテルンの三二年テーゼの主張から少々離れ、独白の「人民史観」を説く左派の歴史家だった。かれは昭和8年に治安維持法違反の疑いで検挙されヽそのあと保護観察の身だった。生家が裕福だったから、生活に困ることなく、歴史の勉強に打ち込んでいた。
 ノーマンは羽仁に向かって、あなたの論文、『岩波講座・日本歴史』の「明治維新」を読んでいるが、難しくて理解できない、講義をしてほしいと頼んだ。ニカ月、毎日午前中、羽仁がノーマンに講義することになった。
 こうしてノーマンは徳川封建制度の圧政を学び、「日本の大陸侵略と国内の暗黒反動組織」を最初につくりあげた西郷隆盛と山県有朋という二人の悪人にたいする憎しみを教わり、大正、昭和のいままで日本には封建主義の圧政がつづいてきたのだと改めて教わった。 この時代をとおして、徳富蘇蜂を筆頭にした日本の十本の指に入る煽動家、世論形成家となる羽仁五郎からノーマンは講義を受け、進歩と保守に善と悪を重ね合わせて、日本政府、日本の体制にたいする侮蔑を自分のものにした。羽仁は三十九歳、ノーマンは三十歳たった。
 東アジア史を専攻し、日本の勉強をしていた研究者のなかには、羽仁五郎の個人教授を受けなくても、コミンテルンの三二年テーゼに感動し、講座派のマルクス主義のビジョンに愛着を持つ者は少なからずいた。そのうちのひとりに、戦争中に太平洋問題調査会の機関誌の編集をしていた戦略爆撃調査団の団員、トーマス・ビッソンがいた。
 太平洋問題調査会は大正時代に太平洋を挟む国々のあいだの平和を促進するための民間の友
好機関であった。日米の戦争がはじまってから、日本側の集まりは解散してしまったが、アメリカの組織はマルクス主義者、日本を激しく批判する研究者の牙城と変わっていた。
 ノーマンのことに戻れば、かれは昭和17年はじめに交換船で帰国し、カナダ外務省で日本の情報分析をおこないながら、明治初期の歴史の研究をつづけた。1945年1月にホットスプリングズで関かれた大平洋問題調査会の大会については、「補遺」で述べることになるが、ノーマンはカナダ代表としてこれに出席し、日本政治の「封建的背景」について報告した。
 そして終戦後の九月はじめに、かれはカナダ外務省からマニラに派遣された。まっすぐ東京に入ることができなかったからである。マニラにいたマッカーサーの司令部の要員はつぎつぎと東京に移っていた。かれも万万フから東京へ向かうつもりだった。
 かれがマニラヘ向かう直前、カナダ外務省内のかれと同じような考えを持つ者と話し合った。日本占領の長官となるマッカーサーはまごうかたなき保守反動だ、同じく保守反動の日本派のジョゼフ・グルーと組むことになるにちがいない。グルーは部下のドーマンを日本に送り込むことになるのではないか。そこでマッカーサーとグルーとドーマンのトリオは日本の保守反動、封建勢力を庇うことになる。恐ろしいことだ。ノーマンと友人はこんな具合に語り合って、憤慨していたのだが、カナダの下級外交官の怒りはごまめの歯ぎしりにすぎず、ひとまずは極東地域に抑留されていたカナダ入の帰国を手伝うのがかれの任務だったのだから、なにもできるはずはなかった。
 ところが、思いもかけない局面となった。マニラで東京への使を待つマッカーサきかの参謀第二部の軍人たちは日本語ができず、日本のことはなにひとつ知らず、心細く思っていた。
かれらは日本文を読むことのできるノーマンの能力に感服し、日本の状況に詳しいのに惚れ込み、なによりも日本にたいする理解が知的で理論的だと思ったのであろう。日本を支配しているのは封建主義だ、対外侵略の総本山は玄洋行と黒龍会という秘密結社だ、これらの組織の幹部を捕らえなければいけない、日本の民主主義者を弾圧する日本のゲシュタポ、特高警察はただちに廃止しなければならない、監獄内の政治犯はこれまた、ただちに釈放しなければならない、日本の財閥こそ日本の侵略主義のダイナモだ、三井、三菱は解体しなければならないとノーマンがよどみなく喋りつづけるのを聞いての評価だったにちがいない。そして日本を平和な国にし、封建主義から脱却させるためには天皇制度の廃止が必要だともノーマンは説いていたのかもしれない。
 東京行きを待つマニラのマッカーサー司令部の諜報部員は、ノーマンに参謀第二部に籍を置いたらどうかと勧めたのであろう。ノーマンにとっては渡りに船だった。そしてかれの日本についての知識を高く買い、そのあともずっとかれを擁護したカナダ外務省の幹部、そのとき外務次官捕、そのあと次官、外務大臣となるレスター・ピアソンは喜んでかれを貸しだした。
*********************
 

   次に、『理は利よりも強し』 藤原肇( 太陽企画出版 1999.1.30)の
 第五章 ●アメリカの対日強硬派の虚実 より、引用する。

 **********************
 
 とくにノーマンのような特級に属する逸材は、日本が誇る最高の人材と交遊関係を築き、シナジー効果でお互いを高め合い、俳句に精通した学習院のプライス教授に肉薄していた。ノーマンは維新史を羽仁五郎から直接に手ほどきされ、都留重人、渡辺一夫、中野好夫、丸山真男といった日本の最良の人間と友人づきあいをしてヽ日本文化のエッセンスの最高級品を吸収した。 彼のおかげて木戸幸一内府は戦犯にならなかったし、天皇の戦争責任もウヤムヤで終わった。もし、彼がマッカーサーの右腕でなかったら、戦後史の内容は大きく変わっていただろう。だから、ノーマンの前ではライシャワーも形無しであるが、さすがはケンブリッジの空気の中で青春を過ごし、顧維欽の後輩としてコロンビア大に学び、最後にハーバードに行って学位を得た点では、同じカナダ系でもブレジンスキーとは月とスッポンである。・・・ 


  戦中の軽井沢での羽仁五郎とノーマンの「交通」という事実は共通認識としてある。
  議論の前提は成立している。

 
なお、★松岡正剛・「千夜千冊」のノーマン像は、下で読める。
  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0014.html
  第十四夜【0014】2000年3月13日
  ハーバート・ノーマン
  『クリオの顔』(岩波文庫)
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