カウンター 読書日記 吉薗周蔵の手記(7)-2
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


吉薗周蔵の手記(7)-2
● 高島の後見役・吉井友実、謎の外遊と経歴の陰に 

  明治4年、御親兵入りを目指して上京した高島鞆之助を、吉井友実(幸輔)が特に抜擢して宮中入りをさせた。西郷、大久保と共に薩摩三傑の一人として知られる吉井は、文政11年(1828)生まれ、高島よりも16歳年長であった。出生地は維新の英傑が輩出した加治屋町方限(ほうぎり)で町内からは吉井の他に西郷隆盛、伊地知正治、高島鞆之助らが出た。野津鎮雄・道貫の兄弟は、加地屋町に隣接する上之園町方限の生まれである。
 吉井は幕末に大阪の薩摩藩倉屋敷で留守居役となり、その後は京都の薩摩藩邸を取り仕切って国事に尽力した。戊辰戦争では、伏見方面の戦いで五中隊分の兵力を指揮して幕府軍を敗走させ、その功績により明治2年、賞典禄千石を与えられた。志士たちの賞典禄を思いつくままに並べると、最高額はむろん西郷隆盛で二千石、大久保・木戸・伊藤が千八百石、大村益次郎が千五百石である。吉井と同じ千石は、薩摩藩では伊地知、土佐藩では後藤象二郎と板垣がいた。因みに黒田清隆は七百石、山県有朋は六百石で、以て吉井の位置をを知るべきである。

 維新直後は国防事務局判事、軍務官判事と軍政に携わった吉井は、明治3年4月民部少輔に転じ、7月まで大蔵少輔を兼ねた。11月にはなぜか民部大輔に降格し、翌4年7月になり宮内大丞に転じるが、これは西郷の宮中改革案を実行する目的の人事である。2月に宮内少輔に昇進し、7年3月まで約3年宮中で勤め辞職した。

 吉井がその後、フランスなどに旅行したことは左の逸話から明らかであるが、この外遊に関する記録を殆ど眼にしないのは、あながち私の浅学のせいではあるまい。それほど、維新後の吉井に関する情報は少なく、事跡が知られていない。明治7年、藩命でフランス工芸大学に留学した旧金沢藩士清水誠が外遊中の「宮内次官」吉井友実と会った時、吉井は卓上のマッチを示して国産化を勧めた。これが本邦マッチ製造の契機で、翌8年に帰国した清水は横浜造船所に勤務する傍ら、三田四国町の吉井別邸を仮工場としてマッチの製造を始めた。日欧の往復だけでも2ヶ月以上掛かった当時、欧州旅行には最低一年を費やした。したがって7年3月に宮内少輔を辞した吉井の外遊は、明らかに辞官の後で、正確には「前宮内少輔」である。

 帰国した吉井は8年4月に元老院議官に就き、10年8月に一等侍輔に転じ、11年5月からは再び元老院議官を兼務する。12年3月に工部少輔を兼ね、翌年工部大輔に昇進し、15年1月に辞官して日本鉄道の社長になった。工部省はかつての建設省、今の国土交通省で、吉井が工部小輔・同大輔を兼ねたのは政府の鉄道計画と関係があるものと思う。政府内ではもともと井上勝(前号で触れた武田成章の弟子)など鉄道国営論が強く、鉄道開設の準備として東京-高崎間の測量から始めたが、西南戦争後の財政難で工事の着工が遅れたため、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きがあり、明治14年(1881)8月1日、岩倉具視を始め華族などが参加して日本鉄道会社が設立されたが、吉井が工部大輔を辞めたのは、その社長に就くためである。日本鉄道は川口―前橋間から建設を開始し、16年7月28日には上野―熊谷間を開業し、その後路線を増やしていった。この時期に日本鉄道社長を勤めた吉井は、2年間に鉄道事業が軌道に乗るや辞職し、17年7月、伯爵に叙されると同時に宮内大輔に挙げられた。
 当時の太政官制は、卿が大臣格、大輔・少輔が次官格、大丞・少丞が局長・部長格で、その下が大録・少録である。吉井と同じ賞典禄一千石の板垣退助は早くも4年7月に参議、同じく後藤象二郎は4年6月から工部大輔を経て6年に参議になった。吉井と同格と見て良い伊地知正治も、7年に左院議長、次いで参議となった。参議は無任所の大臣で、各省の卿ないし大輔を兼ねることが多かった。「明治維新後朝廷厚く友実を用い」と『大日本人名辞書』にはあるが、事実を見ると、実績からして参議が当然の吉井が、板垣・後藤・伊地知らが挙って参議に就いている時期に、大丞と少輔の間を昇降している。12年に至っても兼職が工部少輔とは不自然である。外遊後の8年から断続的に、都合7年にわたって就いた元老院議官や一等侍輔という職掌は、その内容が外部から窺いにくく、吉井が何か陰の仕事に携わっていた感は否めない。明治7年のフランス外遊も、吉井ほどの立場なら辞官する必要もないと思うが、きちんと退職してから旅に出たようで、この外遊には、世間や政府筋に対しては公けにできない目的を想像する。私用めいた用件、例えばワンワーールドの入会儀式に出たのではなかろうか?

 宮中に入ったまま大臣参議にならず、出世の道から外れたかに見える吉井は、明治17年7月施行の華族令で、伊藤・山県・黒田・板垣らと同じく伯爵を授けられた。その経緯は、伊藤宮内卿から黒田内閣顧問に宛てた書簡(神奈川県立公文書館蔵)に記されており、吉井友実・伊地知正治・副島種臣に伯爵を与えたのは明治天皇の意思によるものとしている。吉井は授爵と同時に宮内大輔に就き、元年の官制改革により宮内次官と呼び方が変わるが24年3月に辞めるまでその職にあり、辞職後もなお宮中庁御用掛を拝し、翌4月に死去した(叙正二位)。
経歴から窺える通り、明治4年以後の吉井は、工部・鉄道関係を除き宮中に関わりきりで、東京・明治王朝を裏から支えたフシがある。爵位勲等と職位の釣合いが取れないのはそのせいだろう。途中いかにも唐突に鉄道に関わるが、或いは鉄道事業にワンワールドにとって特別の意義があるのかも知れぬ。

 吉井の嗣子幸蔵(安政2年生まれ)は海軍少佐・侍従武官となり、その子が今日では祖父より有名になった歌人吉井勇である。次子の友武(慶応3年生まれ)は士官生徒10期の軍人で、高鳥鞆之助の長女多嘉(明治6年生まれ)の入婿となって高島家を継いだ。これだけでも吉井と高鳥鞆之助の深い関係が分かる。大正7年に陸軍中将・第十九師団長となった友武は、10年7月予備役となった。

 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/158-d0069990



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。