カウンター 読書日記 吉薗周蔵の手記(7)-1
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吉薗周蔵の手記(7)-1
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)
 
 吉井友実から高島鞘之助へ「ワンワールド」人脈を探究する

 ●高島鞆之助はワンワールド国際秘密勢力に関わっていた

  第一連隊長乃木希助中佐と湯地静子の婚儀は、明治11年8月27日を以って挙げられた。
縁談を表で進めたのは、乃木の副官伊瀬地大尉で、裏には高島鞆之助少将がいた。
西南戦争を別働第一旅団司令長官として戦った高島は、西南戦争で軍旗を失ってからの乃木少佐の獅子奮迅を直接見て、以後その人物を大いに買ったのである。これを見ても乃木はいわれるような凡将ではない。
 宮本直和『大阪階行社附属小学校物語』には、「お見合いの日、高島春子夫人は、祝宴の後に高島邸―当時は日本式木造家屋―に乃木と静子を招き・・」とあるが、見合いの場となった紀尾井町の伊瀬地大尉の新居の近くに高島邸はあった。
 この邸は、高島が陸相の時に洋式に立て替えられ、明治45年3月高島からイエズス会に譲渡され、今は上智大学内のクルトゥルハイム聖堂になっているという。当時イエズス会からの借入話を受けて、近辺に住む軍の高官達はこぞって高値で売るための談合を始めたが、高島がこれを諌めて市価よりも廉価で売却させた。このことで、イエズス教会は今も高島を徳としているらしいが、この逸話には、何やら暗示するものを感じる。

 結論を言おう。高島はワンワールド(国際秘密勢力)=*フリーメーソンのこと=に関係していた(ワンワールドについては別条で述べる)。当今の史家からは賛同は得られまいが、状況がそれを示すし、間接的証拠なら幾つかある。示現流の達人で容貌魁偉、いかにも豪胆朴訥に見え、自らもそのように振る舞った高島だが、本質は頗る頭脳的で幼少の頃から学才で鳴っていた。侍従、侍従番長を経て陸軍入りし、初任で大佐になった明治7から3年後、西南戦争の最中に33歳で少将に進級した高島は、明治12(1879)年2月19日から1年問独・仏に留学を命ぜられる。ドイツでは近代陸軍の父で戦略の天才モルトケ将軍と会い、鉄血宰相ビスマルクにも接した高島は、宴会でモルトケの正面の席を与えられ、しきりに視線を注がれたが、ドイツ語ができないので顔を背けたと述懐している。それにしても、かかる世界史的人物の声咳に接しただけでも大事件で、益することは多かった筈である。

 高島がワンワールドの一員だったのは、諸般の事績からして問違いない。入会の時期は若年の拗、薩摩の先輩吉井友実の紹介により入会した可能性もあるが、正式入会はこの留学の際かとも思う。いや、正式入会のための欧州留学だったかも知れない。とすれば入会の地は何処か。翌年フランスに留学した上原勇作が、その地で秘密結社に入会したことは絶対に確かで、その筋道を作った者は高島鞆之助を措いて他にない。それでは高島は誰からということになるが、吉井を措いてあるまい。吉井については後で述べる。
 

  ● 決して一介の武弁ではなく朝鮮政変にも辣腕を振るう 

明治13年3月29日に留学から帰国した高島は、1ヶ月後に熊本鎮台司令官に補された。翌14年、フランス留学が決まった工兵少尉上原勇作は、帰郷の途上熊本鎮台を訪れ、2月5日高島司令官の官舎に一泊した。或いは帰郷は口実で、高島の訓示を受けるためではなかったか。
 この夜、高島が上原に諭したのは、単なる留学心得ではなく、地球を支配するワンワールド結社に関する解説とみるのが自然であろう。その4日後、高島は大阪鎮台司令官に転じ、翌15年2月6日付で西部監軍部長心得となる。鎮台司令官は後年の師団長相当職で、当時は少将を補したが、監軍部長といえば戦時では軍団長に相当する軍人の最高位で、当時は中将を補した。高島の場合、「心得』が付いたのは、まだ少将だったからで、すでに中将進級が予定された人事である(翌16年2月に任中将)
 15年7月23日、朝鮮王国の京城で壬午政変が起こる。当時朝鮮国内では、清朝の属那で満足すべしとする事大党(守旧派)と、近代化を目指す独立党(開化派)が対立し、さらに高宗の実父・大院君と高宗妃の閔妃との間に激しい派閥対立があった。後者が開化派と結び、別枝軍を新設して日本の指導による軍の近代化に乗り出すが、これに刺激された大院君の陰謀によって、守旧派の兵士が暴動を起こした。暴動の矛先は別枝軍を指導してきた日本軍人にも向けられ、さらに多くの日本人外交官や民間人が殺傷された。31日、西部監軍部長心得・高島鞆之助陸軍少将と東海鎮守府長官・仁礼景範海軍少将は、軍艦四隻に兵員を載せて朝鮮に渡り、花房公使を全権委員として外交交渉に臨み、8月30に済物浦条約を結んで一件に関する妥結を見た。
 16年2月1日付で陸軍中将に進級した高島は、「心得」が取れて西部監軍部長となる。時に39歳であった。翌17年7月の華族令で子爵を授かるが、これを壬午政変における功績とする説は誤りで、樺山中将・野津少将・高島中将の三人揃って子爵を受けており、戊辰戦争の功績を基底にしつつその後積み重ねた功績による授爵と見るほかはない。
 17年12月4日、朝鮮に甲申政変が起こり、解決のために井上外務郷が派遣される。西部監軍部長高島中将は、海軍大輔樺山資紀少将とともに外務郷の随員として参加した。つまり、高島は単なる武弁ではなく、政治外交に携わっていたのである。

 


 
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