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●『激辛書評で知る中国の政治経済の虚実』 (2)
 ● 三笠宮崇仁の日中戦争体験

   張戎夫婦は日本車と戦ったのは国民党であり、共産党ではなかったと主張する。しかしアメリカのジョゼフ・スティルウェル将軍のように、国民党軍と比べて紅車の紀律や戦闘能力を評価した人々は少なくない。日中戦争は一五年戦争とみれば、1931~45年、蘆溝橋から数えれば1937~45年の長期にわたる。この期間の「いつの時点」での話し、広い中国戦線の「どの地域」における話かを限定しないと議論は混乱する。張戎はこのあたりを実に曖昧に議論して、自説を強引に押しつける。一例を挙げよう。
「華中では、共産党の新四軍が鉄道を攻撃しないかわりに日本軍は農村地域に展開する新四軍を攻撃しない、という取引が成立した」「共産党軍を攻撃対象にしなかった根本的な理由について、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁が著者に明快に説明してくれた。三笠宮は、当時、支那派遣軍総司令部の一参謀だった。三笠宮の説明によれば、共産党は厄介な存在ではあるが戦略的重要性はない、というのが日本側の見方であったという」(邦訳上巻377ページ)。

 この記述は二重、三重の誤解に基づいている。まず新四軍との「取引」とは何か。張戎は19339~40年の脈絡で記述しているが、三笠宮が旧支那派遺軍・総司令部の参謀として南京に勤務したのは1943年1月から44年1月までの1年間であり、時期が異なる。
1937年12月前後の南京大虐殺を事後に知った三笠宮がこれを強く批判したことは、有名だ。その他、張戎のこのようなデタラメ引用によって、三笠宮と日中戦争のかかわりについて、事実に合わない印象が作られるのは看過しがたい。以下、長文になるが、三笠宮崇仁にかかわる関係資料を引用しておきたい。
 

 ●三笠宮は『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)の冒頭で、歴史に関心を持つに至った理由をこう説明している。

 
 「戦前の皇室には、皇族身位令という法規があり、皇族は特別の理由がある場合のほか陸軍または海軍の武官に任ずる、という意味のことが記されていました」「当時の歴史をふりかえってみましょう。その前年の1931年には、満洲事変がはじまっていました」(10~12ページ)。
 ここで三笠官は『東京朝日』1930年9月19日付「奉天発至急報電通」の記事を引用している。「この事件より3年前、すなわち、1928年の6月にも次のような大事件が発生しています」として、『東京朝日』6月5日付の「奉天特派員発電」を引用している。「張作霖氏の乗った特別列車が満鉄奉天駅を距たる1キロの満鉄線の陸橋下の京奉線を驀進中、突然轟然と爆弾が破裂し、満鉄の陸橋は爆破され、進行中の張氏の特別列車の貴賓車および客車三台爆破され、1台は火災を起し焼滅し、陸橋も目下燃えつつあり、我守備車および警官出張中である」「埋設してあった爆薬を南軍便衣隊が(中略)爆発させたものらしく、その破壊力偉大な所は到底投げつけた爆弾のおよぶところではない」

 この記事に続けて三笠宮は言う。

 「そのころは、私もこの記事を信じましたが、やがてそれらが日本陸軍の謀略であることがわかってきました」「そして1932年には、日本海軍と陸軍が共同して上海事変を起こしました」「上海に上陸した陸軍のある師団長は、支那軍が降参しなければ、四百余州を焼きはらうと豪語したといいます。当時の日本(軍)人がいかに中華民国や中国人を侮蔑していたかがわかります」(13ページ)。
 「1936年の春、士官学校本科を卒業した私は、千葉県習志野の騎兵第一五連隊に勤務を命ぜられました」「そのころのことで、今もなお良心の呵責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです。それゆえ、精神訓話のさいには、日本軍のおこなう戦争は正義のいくさである、と部下に教えていました」(14ページ)。
 「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして 1年間在勤しましたが、その間に私はは日本車の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例を挙げられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考え下さい」(16ページ)。
 三笠宮は南京の総司令部で「日本車の残虐行為」として何を知ったのであろうか。

 「ある青年将校(私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです)から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突き刺させるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満洲の荒野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満洲事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが、成功しなかった、と語っていました。「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした」(16ページ)。

 淡々とした語り口だが、三笠宮は南京事件の直後にこれらの事実を知ったわけだ。
 「私が上海地区の視察に行ったとき、ある師団長はつぎのように述懐されました。『われわれが戦っている敵方の中国軍と、日本車に協力している昧方の中国軍とを比較すると、相手方のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦いをしているはずなのに、軍紀のゆるんでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっているほうの軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます』と。今にして思えば、ヴェトナムにおける米軍もまさに同様の矛盾を感じていたのではありますまいか」(19~20ページ)。
 ここで「日本軍に協力している昧方の中国軍」とは、いうまでもなく汪兆銘南京政府を指している。三笠宮が1943年5月26日に畑支那派遣車総司令官とともに汪兆銘南京政府主席と会談している。

 では「敵方の中国軍」とは、何を指すのか。文脈からして、ここでは蒋介石の重慶政府を指している。では三笠宮は共産党の軍隊をどう見ていたのか。

  
 「話はまた私が中国で勤務していた時にもどります」「日本車は中国大陸の各地で中国軍と対峙していましたが、『大同の石仏』で名高い山西省の山中では八路軍と対陣していました。長期持久戦ですから、食糧も衣料も自給自足しなければなりません。日本軍はとにもかくにも戦線の背後に鉄道を持っていましたが、八路軍の後方には山岳地帯と万里の長城が横わっているだけです。しかも、その陣地線は延々とつらなる岩山でした。そこに彼らは土を運んできては、種を播いて自給自足をはかったと思われます。われわれはその模様を空中写真から読み取りました。その情熱。これには日本車の司令官も舌を巻いていました」「彼らの対民衆、ことに婦人にたいする軍紀はおどろくほど厳粛でありました。当時、日本軍人で婦女子に暴行する者がいることに頭を悩ましていた某参謀は、『八路軍の兵士は、男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか』と、まじめに話していました」(33~34ページ)。

  
 前述の「敵方の中国軍」として三笠宮が認識していたのは、明らかに国民党軍であったが、実は三笠宮がここで「厳粛な軍紀」に言及するとき、より印象深く感じていたのは、山西省の八路軍であったことが、この引用から理解できよう。まさに、その情熱の根源を探求するために、彼は戦後歴史や宗教を学び始めたわけだ。最後にもう一節を引用しておきたい。

 「旧約聖書を読んでいくうちに、私の心を強くとらえたのは、多くの預言者たちの叫ぶ「社会正義」の問題でありました。聖戦にあいそをつかした私は、さきに記しました宣教師や八路軍の情熱を解くカギが、この旧約聖書の中にひそんでいるような気がしてきました」(36~37ページ)。
 
 三笠宮の日中戦争体験を以上のように見てくると、張戎夫婦が三笠宮を訪問して何をヒアリングしたのかがきわめて疑わしくなる。少なくとも三笠宮の見解として張戎が記述しているものは、三笠宮の真意からはるかに隔たっているし、あえていえば張戎は三笠宮とのインタビューを売り物にしつつ発言(されたであろう)内容とはまったく食い違うことを書いていることが、以上の引用から推察できよう。
 


   ● 毛沢東の死生観および大躍進期の餓死者数 へ(続)
  
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