カウンター 読書日記 原爆投下について(7)
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原爆投下について(7)
  ● 古今東西、独裁者ほど孤独な者はいない。

 独裁者には、自ら招いた事態とはいえ、真に心を打ち明けて話し合う友もいない。

 ただ、独裁的な権力の保持者が決断力をあわせ持っていれば、緊急な決定を要する事態には対処できる。極度な慎重派(別の言い方をすれば、臆病者)であったというスターリンの、このトルーマンの「出し抜き=ヤルタ宣言への裏切り」を確信したときの素早い反応も今では納得のいくものだ。

*********************

 『暗闘』より続ける。

 <第五章> 原爆とソ連の参戦

 トルーマンの「出し抜き=ヤルタ宣言への裏切り」を確信した、スターリンの反応は素早かった。

 トルーマンによる「ポツダム宣言の作成と発表からの完全なソ連の締め出し」は、スターリンが計画していた「戦争開始の時刻表」の変更という結果を生んだ。 
 

 「・・ 
 八月三日には、イワノーフ極乗車参謀総長とワシリエフ少将(ワシレフスキー元帥の変名)が連名でスターリンとアントーノフに重要な電報を送っている。この電報は、八月五日までに第一、第二極東戦線のソ連軍はあらかじめ定められた国境から五十~六十キロ離れた拠点地に集結することを完了するとの報告である。ワシレフスキーは奇襲の効果を最大限にするためには、二つの方面軍の攻撃が「同日の同時間に」なされることが重要であり、攻撃の命令を受けとってから国境を越えて攻撃を開始するまで三日から五日を要すると述べている。これから計算すると、ワシレフスキーは攻撃が八月九日から十日(モスクワ時間)に開始できると考えていたことが推測される。ワシレフスキーは最高司令部に、軍事行動開始の正確な日時に関する最終的な指示と「政治的外交的問題に関する指示」を与えてくれるよう要請した。

 ●この電報は二つの重要な事実を示唆している。第一に、これはあきらかにまだ未発見のままであるスターリンが送った電報にたいする回答であり、スターリンはこの電報で、これまでに設定されていた八月十一日を一日か二日早めることができないかと打診したと推定できる。ワシレフスキーの電報は八月三日に出されているから、このスターリンの命令はモスクワに発つ前の八月二日、おそらくポツダムから出されたのだろう。トルーマンがスターリンの裏をかいてポツダム宣言をスターリンの署名なしで発表したこと、これはアメリカがソ連の参戦前に日本を降伏させる方針であるに違いないと考えたスターリンは、急いで戦争開始の日を早めたのだと思われる。ワシレフスキーの「政治的外交的問題に関する指示」という言葉は、ソ連の戦争開始のタイミングがアメリカの政策と関係していることを示唆している。

 第二にワシレフスキーの電報は、戦争開始の日時を八月九日か十日と設定されていたものの、これにたいする軍事行動開始の日時に開する最終的な指示を依頼していること、さらに「政治外交的問題に関する指示」を依頼していることから、最終的な決定というよりは、一つの提案であり、これをモスクワの最高司令部の決定にゆだねたことを示唆している。この提案を受けて、最高司令部は八月十一日に設定された当初の戦争開始の時期を早めるか否かについての討議を行ったが、時期尚早の攻撃は危険であると判断して、元のように攻撃の日時をザバイカル時間の八月十一日の午前零時(モスクワ時間の八月十日午後六時)と設定した。スターリンが求めたと想定できる「政治的外交的」観点からの攻撃開始のくり上げか、それとも軍事的観点を重視して、すべての準備がこれを想定してなされていたこれまで通りの戦争開始日時を遵守するのかの選択で、最高司令部は、この時点では戦争開始を早めることは得策ではないと判断したのであろう。

 スターリンがモスクワに帰国したのは八月五日の夕方であった。スターリンの八月五日の日程表は、彼がモスクワに到着するなりものすごい勢いで仕事をし始めたことを物語っている。彼はまず、モロトフ(外相)、ヴィシンスキー(外務次官)、ベリヤ(内務人民委員部長)、クズネツォーフ(海軍人民委員)、ミコヤン(レンドリース担当)などソ連指導部の高官との会議をこなしている。この顔ぶれから考えると、スターリンが日本との戦争、さらにアメリカの原爆使用の可能性について討議したことは確実である。ここにアントーノフの名前が見えないのは、おそらく彼とは軍用電話で連絡を取っていたからであろう。
 ソ連はまっしぐらに対日戦争へと進んでいった。スターリンは急いでいた。


 ● アメリカ、広島に原爆投下

 「七月三十一日に原爆「リトルボーイ」は実戦に使用する準備が出来た。しかし日本を台風が襲ったので、投下は延期された。その間、原爆投下のための準備が着々と進められていた。七機のB-29がこの任務につくことになっていた。原爆を搭載する一機のほかに、三機は気象観測用で広島、小倉、長崎に飛行する。二機は原爆を搭載したB‐29を護衛する任務を帯び、他の一機は原爆の投下とその結果を観察する任務をおびた科学専門のジャーナリストとカメラマンを乗せた飛行機であった。この一隊のほか硫黄島でもう一機が、原爆搭載機にトラブルが起こった場合にそなえて待機していた。
 八月四日にポール・ティベッツ大佐はブリーフィングを行い、与えられた特別任務とは広島、小倉、長崎のうちのどれか一つの都市に原子爆弾を投下することであると初めて乗務員に明かした。
最初の原子爆弾を組み立てる任務を遂行したウィリアム・パーソンズ海軍大佐が、トリニティー原爆実験の記録映画を乗務員に見せた。絶対に禁止されていたにもかかわらず、ブリーフィングでの話をこっそりノートにとっていたエイブ・スピッツァーは「まるで異常な想像力をもった人が見た奇妙な夢のようであった」と記した。
 次の日の八月五日の天気予報は、天候は良好に向かうと伝えた。この日の午後二時、グアムの第二一戦略爆撃航空軍カーティス・ルメイ参謀長が「使命は八月六日に達成されることを確認」した。この日の午後、「リトルボーイ」はB-29爆撃機に搭載された。機長のティベッツは、この爆撃機を自分の母親の名前にちなんで「エノラ・ゲイ」と名づけた。夕食までにすべての準備が完了した。
ティベッツは真夜中の零時に最後のブリーフィングを行った。プロテスタントの従軍牧師がヽ封筒の裏に急いで書いた祈祷の言葉を読みあげた。

「全能の父よ。貴方の御許天国の高い空を飛び、われわれの敵との戦いを遂行する者たちと共に居らせられますように」

飛行前の朝食の後に、エノラ・ゲイを背景にして駐機場で記念撮影をしてから、乗務員は全員機に入った。テニアン時間で午前二時四十五分(ワシントン時間で八月五日の十一時四十五分)エノラ・ゲイは離陸した。これを追って、二機の観測機B‐29が二分の間隔をおいて離陸した。


 
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