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●南方熊楠の手紙
                



 ★次の一文は、以前(2007年6月)にアップしたものですが、<参考>のため、誤字と一部を訂正して再アップします。

  ************* 
 

 通称「履歴書」。

 1925年1月31日早朝(五時前)に書き始められ、3日がかりで書き終えたという手紙。

 巻紙25尺(7.5メーターを超える)、約58000字の超・長文!

 自身が設立した「南方植物研究所」の募金依頼がその手紙の目的だが、内容は千里馬のように、原野を駆け巡るが如し。

 父親の履歴から、自身の生い立ち、さまざまな交友、研究の状況、隣の家との諍いごと、艶話、兄弟やその妻への愚痴、痛罵・・・「天馬、空を飛ぶ」か、天馬=天魔なのか?・・・

 受け取り人である、当時日本郵船㈱・大阪支店副長だった矢吹義夫氏の驚いた顔が目に浮かんでくるようだ。

 私は、不調モードに入ったときに何度となくお世話になったし、今でも時々読み返す。
 
 *中沢新一の編集による<南方熊楠コレクション全五巻>が河出文庫に収められている。

  ご一読を強くお薦めします。こういう文章に接すると、「博覧強記」などという言葉は、安易に使うべきではないと痛感する。

 ● 以下、印象的な一文を引用していこう。
 
 
**************

 ・・・(ロンドンで)小生の(住居)とかわり、立派な町通りに住居りし故アンドリュー・ラングなどは、生活のためといいながらいろいろの小説や詩作を不断(普段)出し、さて人類学、考古学に専門家も及ばぬ大議論を立て、英人中もっとも精勤する人といわれたり。この人などは、大学出の人で多くの名誉学位を帯びたが、博士などと称せず、ただ平人同様ミストル(ミスター)・ラングで通せしなり。

 しかるに、わが邦には学位ということを看板にするのあまり、学問の進行を妨ぐること多きは百も御承知のこと。小生は何とぞ福沢先生の外に今二、三十人は無学位の学者がありたきことと思うのあまり、二十四・五歳のとき手に得らるべき学位を望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学して和歌山中学校が最後の卒業で、いつまで立ってもどこを卒業ということなく、ただ自分のの論文報告や寄書、随筆が時々世に出て専門家より批評を聞くを無上の楽しみまた栄誉と思おりたり。

 しかるに国許の弟どもはこれを悦ばず、小生が大英博物館に勤学すると聞いて、なにか日本の博覧会、すなわち昔ありし竜の口の勧工場ごときとこで読書しおることと思いおりたるらしく、帰朝の後も十五年も海外におりて何の学位をも得ざりしものが帰ってきたとて仏頂面をする。むかしも尾張の細井平洲は四方に遊学せしが、法螺だらけの未熟な教師に就いたところが、さしたる益なしと悟って、多く書籍を買い馬に負わせて帰り、それで自修してついに大儒となれりと申す。

 こんなことは到底、早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟には分からず。いわんや、平凡なむかしの和歌山の女学校ぐらいを出たきりの、弟の妻には分からぬこと一層にて、この者ども小生を嫌うことはなはだしく、というと学問方法上の見解の差異のごとくで立派だが、実は小生は不図(ふと、急に)帰朝したので、小生が亡父より譲られた遺産を舎弟が兄(道楽者だったという)の破産の修繕(弁済に充てたので)に籍口して利用したるを、咎められはせぬかとの心配より出でし小言と後に知れ申し侯。
 

 かくて小生、舎弟方に寄食して一週間ならぬうちには香の物と梅干しで飯を食わす。これは十五年も欧州第一のロンドンで肉食をつづけたものには堪えがたき難事なりしも、黙しておるとおいおいいろいろと薄遇し、海外に十五年もおったのだから何とか自活せよという。こっちは海外で死ぬつもりで勉学しおったものが、送金にわかに絶えたから、いろいろ難儀してケンブリジ大学の講座を頼みにするうち、南阿戦争でそのことも中止され、帰朝を余儀なくされたもので、弟方の工面がよくば何とぞ今一度渡英して奉職したしと思うばかりなるに、右ごとき薄遇で、小使い銭にもことを欠かす始末、何をするともなく黙しおるうち、 翌年の夏日、小生海水浴にゆきて帰る途中、小児ら指さし笑うを見れば、浴衣の前が破れて「きん玉」が見えるを笑うなり。兄をしてかかるざまをせしむることよ(*情けないとは思わないのか兄弟として)とゆうに、それが気に入らずばこの家を出よと迫る。その日はたまたま亡父母をまつる孟蘭盆(ウラボン)の日なるに、かくのごとき仕向け、止むを得ず小生はもと父に仕えし番頭の家にゆき寄食す。しかるに、かくては世間の思わく悪しきゆえ、また甘言をもって迎えに来たり、小生帰りておると、秋に向かうに随い薄遇ますますはなはだし。ここにおいて、一夕大乱暴を行ないやりしに辟易して、弟も妻も子供も散り失せぬ。・・・ 

*結局、熊楠と弟・常楠一家とはそりの合うはずもなく、明治35年末、熊の勝浦港に向かう。
 熊楠にとってこの熊野・勝浦はまさに「別天地」であった。


 ***************
 ・・・
 小生は百十五種ばかりに日本粘菌総数をふやし申し侯。その多くは熊野の産なり。さて、知己の諸・素人学者の発見もあり、ことに数年来小畔氏奮発して一意採集されてより、只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候。しかし、小生のもっとも力を致したのは菌類で、これはもしおいであらば当地へ見に下られたく、主として熊野で探りし標品が、幾万と数えたことはないが、極彩色の画を添えたものが三千五百種ばかり、これに画を添えざるものを合せばたしかに一万はあり。田中長三郎氏が『大毎』紙に書いたごとく、世界有数の大集彙なり。また淡水に産する藻は海産の藻とちがい、もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし。その淡水藻をプレパラートにおよそ四千枚ぱ作り候。実に大きな骨折りなりしが、資金足らずしてことごとく図譜を作らぬうちに、プレパラートがみな腐りおわり候も、そのまま物語りの種にまで保存しあり。実に冗談でないが沙翁の戯曲の名同然Lovers Labours Lostなり。

 友人(只今九大の農芸部講師)田中長三郎氏は、先年小生を米国政府より傭いにきたとき、拙妻は神主の娘で肉食を奸まず、肉食を強いると脳が悩み出すゆえ行き能わざりしとき、田中氏が傭われ行きし。この人の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草学、物産学よりも質が劣る、と。これは強語(*こじつけ)のごときが実に真実語に候。むかし、かかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり。
しかるに、今のはこれをもって卒業また糊ロの方便とせんとのみ心がけるゆえ、おちついて実地を観察することに努めず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。御承知通り本邦の暖地に松葉蘭と申すものあり。・・・中略・・・

 小生はそんな博士を愍然と冷笑するなり。身幸いに大学に奉職して、この田舎に在りて、万事不如意なる小生よりは早く外国にこの研究を遂げたる者あるの報に接したりとて、その人が何の偉らきにあらず。いわば東京にある人が田辺にあるものよりは早く外国の政変を聞き得たというまでのことなり。小生外国にありしうちは、男のみかは婦女にして、宣教または研学のためにアフリカや豪州やニューギニアの内地、鉄を溶かすような熱き地に入って、七年も八年も世界の大勢はおろか生れ故郷よりの消息にだに通じず、さて不幸にして研究を遂げずに病んで帰国し、はなはだしきは獣に食われ疫に犯されて死せしもの多く知れり。これらはこと志と違い、半途にして中止せしは、決して笑うべきにあらず。同情の涙を捧ぐべきなり。


 御殿女中のごとく朋党結託して甲を乙が排し、丙がまた乙を陥るる、蕞爾(さいじ)たる東大などに150円や200円の月給で巣を失わじと守るばかりがその能で、仕事といえば外国雑誌の抜き読み受け売りの外になき博士、教授などこそ真に万人の憫笑の的なれ。
 
 件の博士は学問が好きで子を何人持つか覚えぬ人の由、「桀紂(ケッチュウ)はその身を忘る」と孟子は言ったが、自分の生んだ多くもあらぬ子の数を記臆(ママ)せずなどいうも、また当世はやりの一種の宣伝か。

 ここまで害き終かったところ、友人来たり小生に俳句を書けと望むことはなはだ切なり。随分久しく頼まれおることゆえ、止むを得ずなにか書くことと致し候。この状はここで中入りと致し候。右の俳句を書き終わりて、また後分を認め明日差し上ぐべし。今夜はこれで中入りと致し、以上只今まで出来たる小生の履歴書ごときものを御覧に入れ申し候。蟹は甲羅に応じて穴を掘るとか、小生は生れも卑しく、独学で、何一つ正当の順序を踏んだことなく、聖賢はおろか常人の軌轍をさえはずれたものなれば、その履歴とてもろくなことはなし。全く間違いだらけのことのみ、よろしく十分に御笑い下されたく候。かつこれまでこんなものを書きしことなく、全く今度が終りの初物なれば、用意も十分ならず、書き改め補刪(ほさん)するの暇もなければ、垢だらけの乞食女のあらばち(*処女?)を割るつもりで御賞玩下されたく候。

 ただしベロアル・ド・ヴェルヴィユの著に、ある気散じな人の言に、乞食女でもかまわず、あらばちをわり得ば王冠を戴くより満足すべしと言いし、とあり。小生ごときつまらぬものの履歴書には、また他のいわゆる正則に(正則とは何の変わったことなき平几きわまるということ)博士号などとりし人々のものとかわり、なかなか面黒き(ママ)ことどもも散在することと存じ申し候。これは深窓に育ったお嬢さんなどは木や泥で作った人形同然、美しいばかりで何の面白みもなきが、茶屋女や旅宿の仲居、お三どんの横扁(ひら)たきやつには、種々雑多な腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしきことがあると一般(共通するもの)なるべしと存じ候。  大正14年2月2日夜9時

 *************  

 前状の続き (終わりではなかったのだ!)

 かくて小生那智にあり、・・・略。 


 この書簡形式の寄附依頼状は、間に日常の雑事や関連談義を挟みながら、終わると思えば翌日に再び書き続けられた。

 熊楠のこの「履歴書」は白川静の「ノート」やバルザックの「改稿」とともに「何か」衝動に突き動かされたもののように見える。白川謂うところの「狂」なるものだろうか。


  <追記> 『十二支考』(岩波文庫)は愛犬家にお薦め、『南方熊楠』(平凡社コロナブックス)は貴重な写真がありがたい。***

 明治のほぼ初めと終わりに誕生した二人の知と行動の巨人には「明治の」と言って悪ければ、「我々とは違う時代」の「面魂」というものがある。 

 

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