カウンター 読書日記 原爆投下について(6)
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原爆投下について(6)
 アラモゴルドの原爆実験が成功してから(会議中にトルーマンへ伝えられた)、トルーマンとバーンズの主要な目的は、ソ連をポツダム宣言の署名国から外すことになっていく。

 スターリンとモロトフは、ポツダム宣言の最終的なテキストを作成する討議から完全に閉め出された。ソ連が宣言の内容を知るのは公表後となる。
 会場のいたるところに仕掛けられたソ連の盗聴器は、まったく役にたたなかった。

 スターリンは、これをアメリカの重大な裏切りであるとみなしたが、重要なことは、このトルーマンの侮辱的行動によって、スターリンはアメリカの意図を見抜いた。ーソ連の参戦の前に日本の降伏を勝ちとろうとするアメリカの意図を。
 
 以後、スターリンはトルーマンの目的達成を必死で阻もうとした。

 ソ連は一刻も早く参戦しなければならない。

 トルーマン自身は、たとえ<実験成功>の報を確認した後も、少なくともここポツダムに来た目的が「ソ連の参戦を促す」ことであったという事実を忘れるわけにも、無視するわけにもいかなかった。公的な声明も出していたし、その報告は絶対に公にはできないのだから。
 何よりもソ連参戦はヤルタ会談で定められた義務であり、ポツダムでも確認されたことである。
 ヤルタであのルーズベルトは、あえて「日ソ中立条約」の存在に目をつぶり、ソ連の早期参戦を要請していた。
 トルーマン=アメリカのいわば<弁解ーいいくるめ>の方策探しがはじまる。
 米・ソの「キツネとタヌキの騙しあい」の様相を呈てくる。

 日本の国内では「宣言」の解釈・受け止め方をめぐり混迷が続いていく。
 しかも、その過程のいちいちは暗号電報の解読によって、筒抜け状態であった。
 (ポツダム宣言後の佐藤=東郷往復電報は<マジック>によってキャッチされていた。) 


 七月二十八日 鈴木首相の記者会見での「黙殺」(?)発言。
        (鈴木首相は「ノーコメント」と言っただけだという当時の同盟通信・国際局長
        長谷川才次の証言もある。)

 ****************

 「・・・マジックは日本政府内の分裂を伝えていた。フランクは、この分裂、しかも、軍の反対によってポツダム宣言の受諾はまったく不可能であったこと、また、ウルトラによって得られた日本軍の九州における恐るべき増強の情報などによって、トルーマンには、原爆を使用するほか手段はなかったと論じる。
 しかし、原爆を使用する決定は気が重かったと後に証言した大統領が、日本の外相がポツダム宣言の条件をまさに降伏条件として検討しているという情報に接したとき、また日本政府の意見が分裂していることを知ったとき、この情報をさらに検討することなしになぜ原爆投下を急いだのであろうか。また、日本がソ連の斡旋に最後の期待をかけていること、さらにこの期待はソ連の参戦によって粉砕されることを知っていたのに、なぜ原爆の投下を急いだのであろうか。フランクが主張するように、トルーマンは原爆投下のほか手段がなかったのではなく、まさに、ソ連が参戦することが分かっていたからこそ原爆投下を急いだのである。七月二十八日以降、アメリカ政府がマジックで得られた情報を注意深く分析したという証拠はない。すでに原爆投下の決定はなされており、日本政府が降伏しないかぎり、この決定が覆される可能性はなかったのである。

 ***************

「・・・トルーマンは七月三十一日に「提案承認。用意が出来次第リリースせよ、ただし、八月二日以降のこと」とスティムソンの電報に回答した。
 トルーマンの伝記を書いたデイヴィ″ド・マ″カラーはこのトルーマンの返事を、トルーマンによる原爆投下の命令の証拠であると鬼の首でもとったかのように論じているが、これは仲兄が証明している通り、まったくの誤りで、トルーマンは原爆の投下(乙回礼を命令したのでなく、たんにスティムソンが準備した原爆投下の後に発表する声明の発表(乙回礼に承認を与えたに過ぎない。
トルーマンは後に、ポツダムから帰国する大西洋上での航海の途中で原爆投下の命令を発したと記しているが、これはトルーマンの作り話である。七月二十五日にハンディーがスパーツに手渡した命令以外に原爆投下の命令は存在しない。
 三巨頭は八月一日に最後の会議を行った。議長として、トルーマンが会議の終了を告げた。スターリンは、「おそらくわれわれのだれよりも一生懸命働いた」バーンズを褒めたたえるスピーチを行った。スターリンの言葉は真摯なものだったのか、それとも皮肉がこめられていたのかは不明である。
 スターリンはその日に、トルーマンは翌八月二日の早朝、ベルリンを発った。
 トルーマンは八月六日の月曜日、オーガスタ号で大西洋を航海する帰国の途にあり、オーガスタ号がカナダのニューファウンドランド付近に近づいたときに、広島に原爆が投下されたという報を受けた。
原爆とソ連参戦とのあいだの競争は、最後の、もっともドラマに満ちた段階に入ったのである。」

 ●ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、1945年7月26日の「ポツダム会談」での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)に関する13条から成る降伏勧告の宣言。
 ●ポツダム会談の席上で、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに原子爆弾開発実験の成功が伝えられた。
  会談に加わっていたソビエト連邦は、大日本帝国に対して中立の立場をとっていたため、宣言に加わらず、アメリカ合衆国、英国、中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表された。英国代表クレメント・アトリーは総選挙後の後始末のために不在であり、中華民国代表蒋介石もポツダムにいなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。
  ソビエト連邦が宣言の具体的内容を知ったのは公表後であったためヨシフ・スターリンは激怒したという。8月8日にソ連は、対日宣戦布告してから宣言に加わった。
 

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