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バルザックの一日
連載 読書余滴 第二回

 大量生産の秘密(Ⅱ) 木田元
 
 大量生産と言われて、まず思い浮かべるのはバルザックである。たった51年の生涯に、九十編ちかい長短の小説を書き、これを十七巻の『人間喜劇』にまとめたほか、三十六編のコントを含む『風流滑稽譚』や戯曲、さらに三百編に及ぶ論文や雑文を書いたというから、大変な生産量に違いない。
この時代にも、ゲーテやヴォルテールはいつも二、三人の秘書を廻りに置いていたというし、サントブーヴでさえ予備的な仕事はすべて助手にさせていたというが、バルザックは私信から事務的な書類の処理まですべて自分で片づけていたそうだから、驚くべき勤勉さである。
もっとも、分量だけならこのくらい書いた作家はほかにもいるだろう。私が昔から腑に落ちなかったのは、彼が伝説になるほど凄絶な働き方をしながら、年がら年中借金取りに追いまわされていたということである。それだけ書けば、当然莫大な原稿料や印悦が入るだろうし、大体そんなに借金をするほど金を使う暇などなさそうに思われるからだ。
 したがって、「大量生産の秘密」と言っても、今回は、なぜこんなに大量生産できたかの秘密ではなく、これほど大量生産しながら、なぜ借金から解放されなかったかの秘密である。
 これがどこかで気になりながらも、私はバルザックの伝記を読まなかった。というより適当な伝記がなかったのだ。アランやクルティウスのバルザック論は正面切った作品論で、生活の細部にまで筆は及んでいない。最後の恋人ハンスカ夫人を訪ねての二度のウクライナ旅行のあたりがはっきりせず、バルザック伝は書きにくかったそうだ。
 ところが、数年前近所の古本屋でシュテファン・ツヴァイクの『バルザック』水野亮訳、早川書房)を見つけた。。そう、『ジョゼフ・フーシエ』や『マリー・アントワネット』をはじめとする多くの傑作を書いたあの名伝記作家・ツヴァイクである。彼はバルザック伝を二つ書いており、ほとんど書き上げながら、亡命の旅に出発したため完成できないでしまったこの伝記の方を「大バルザック」と呼んでいたそうだ(「小バルザック」はディケンズ」「ドストエフスキー」と共に『三人の巨匠』-邦訳は、みすず書房-に収録されている)。描写がいっそう具体的なこの「大バルザック」を読んで、気になっていた秘密は氷解した。この本にはバルザックの一日が紹介されているが、これがすごいのだ。あまり面白いので、請け売りしたい。

 彼が目覚めるのは真夜中の十二時、召使が扉をノックすると起き出して、ダブダブの修道服―冬は暖かいカシミヤの、夏は薄いリンネルのーを着る。これが彼の労働着だ。銀の燭台に六本の蝋燭をともし、カーテンは閉ざされている。
 バルザックは小さなみすぼらしい机に向かう。机の上には、少し青味がかった薄い紙とからすの羽軸のペンとインク壷、思いつきを書きとめる小さなノートが置かれているだけ。
 彼は書きはじめると一瀉千里、書いて書いて書きまくる。普通でも六時間、時によると七時間も八時間も、手がしびれ、眼がうるみ、背中が痛み、こめかみのあたりが脈打ち、神経が緊張に堪えられなくなるまで書きつづける。時どきコーヒーわかしに火をつけ、自分で吟味して買い集めた三種類のコーヒーをブレンドした、濃厚なコーヒーをがぶ飲みする。
 朝の八時になると、下男がお盆に質素な朝食をのせてもってくる。カーテンをあけ、バルザックも一息入れる。食後一時問ほど熱いお湯に入る。だが、風呂から出てふたたび修道服を着るやいなや、まず新聞社や出版社の使いが仕上ったばかりの原稿を受けとりにくる。バルザックは書きもしないうちから原稿を売りとばし、抵当に入れてしまっているのだ。それに、彼自身いったい何を書いたのかよく分からないのだから、そっくり渡して活字にしてもらう必要があるのだ。新聞社や出版社から次にくる使いは、バルザックがおととい書いて、きのう印刷にまわした原稿の真新しい校正刷と、その前の校正刷の直しの校正刷をIダースも三ダースも、いや時には五、六ダースももってきて、バルザックの直しをもとめるのだ。
 校正といえば、通常は誤植を訂正したり語句を少しいじったりするくらいの楽な仕事だが、バルザックの校正はまるで違う。彼の校正は、原文をまったく書き変え、新たに書き起こすようなものだからだ。彼は、性急に下書きされた原稿が印刷された棒組のゲラ刷を手がかりにして、新しい文章をどんどん書きこんでいく。校正刷はトランプのエースの札のように、印刷面が真中に小さく置かれ、上下左右に四倍から八倍の余白が設けられており、そこにどんどん書きこまれていくのだ。
 そうした校正が二回、三回、四回と繰りかえされ、時によっては十五回にも十六回にもなることがあったという。ツヴァイクのこの本に、『暗黒事件』の校正刷りが写真版で収録されているが、その加筆は最初の原稿量の三倍近くあり、それでも決定稿までにはまだ間があるそうだ。そうした直しの費用はすべて著者の負担で、そのために彼は印税の半額、時には全額さえ払わされることがあったそうである。原稿は書く前からすでに売り渡され、こうして直しの費用をとられるのだから、書けども書けども借金がへらず、それどころかふえかねなかったわけも分かろうというものだ。
 それはともかく、バルザックはこの校正作業を三、四時問ぶっつづけでやり、正午になってやっと簡単な食事をする。もともとは脂っこいこってりとした料理が好きなのだが、仕事中はそうした食事をすると疲れるのを知っているし、休む暇などないことを心得ているので、卵かバターつきパンですませるのだ。
 しかもバルザックは、食事をしながらも椅子を机の前にずらせていって、校正したり構想を書きつけたり手紙を書いたりしはじめる。夕方の五時ごろになってやっとペンをおく。終日誰にも会わず、窓から外を眺めることさえせず、新聞も読まない。こうしてバルザックは、ほかの人が遊びはじめる八時に寝床に入り、ものの一分もしないうちに深い眠りに入る。これがバルザックの一日であり、こんな調子で彼は数週間ぶっつづけで仕事をすることも珍しくなかったという。

 二、三週間一歩も外に出ず、一仕事片づけると休息をとるが、そのときバルザックは憔悴しきっていて、脱け殼のように倒れ伏すだけだったそうである。
 だが、たまに気晴らしをする余力のあるときには、仕事と同様に彼は桁はずれの馬鹿さわぎをする。幾週間も誰の声も間かずに誰とも話をしなかった穴埋めをするように、サロンに出かけ傍若無人に大言壮語し、嘲笑し供笑し、口角泡をとばしてしゃべりまくる。勘定も計算もしないで意味もなく金をバラまく。この場面だけしか見ていない者にとっては、見栄坊の子どもじみた馬鹿者にしか見えなかったであろう。だが、バルザックにとっては、仕事の合間のほんの束の間の馬鹿さわぎだったのだ。
 校正を繰り加えすなかで作品を仕上げていくというこの巨額の費用のかかるやり方を、バルザックはどれほど出版業者に哀願されてもやめようとしなかったという。しかも、おかしなことに彼は、どんな作品でも、それが出来上がると、初校、再校、第三校から最後の校正刷までをひとまとめにし、元の原稿を一緒に製本し、どっしりした一冊の本に仕立て上げたものらしい。当然それは厖大な量になる。決定版がたった二百ページしかないのに、こっちの方は二千ベージにもなることがあったそうだ。

 出来上った作品しか見ていない読者には分からないバルザックの苦役の唯一の証人であるこの合本(?)は、貴重な贈物として親しい友人たちにおくられた。。大部分は最後の恋人であり妻にもなったハンスカ夫人におくられたが、前の恋人たちや妹にもおくられているし、主治医だったナカール博士にも『谷間の百合』の校正刷合本がおくられているそうである。

 では、肝腎の借金の方はどうなったのか。バルザックは印税や原稿料ではとうてい払いきれないと考え、銀鉱山に投資したり、鉄道株を思惑買いしたり、土地に投機したりしたがすべて失敗し、大金持の貴族の未亡人と結婚して清算してもらうしか道はないと思っていたらしい。そして、狙いどおり一八五〇年の三月に、ウクライナに広大な領地をもつポーランド貴族の未亡人ハンスカ夫人とキエフで結婚したが、五ヵ月後の八月、パリで幾度も心臓病の発作を起こし、腹膜炎にかかり、右足に腫瘍ができ、満身創痍の状態で命つきてしまった。討死、というにふさわしい壮絶な最期であった。
 *************  『大航海』63号より。

 
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