カウンター 読書日記 落合論文(6)-5
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


落合論文(6)-5
 吉薗周蔵の手記(6)-5

 「あれでも軍人か、早く身を固めさせよ」といわれた乃木


  高島鞆之助は乃木希典と静子夫人の結婚を媒酌(媒介)した。聖将と呼ばれ日本軍人の代表と讃えられる乃木は、嘉永二(ー八四九)年長府藩士に生まれ、幕末に長府藩報国隊に入り、奇兵隊に合流して小倉口で幕府軍と戦った。明治二年、藩命により伏見御親兵営に入隊し、四年十一月二十三日に少佐となるが、時に二十三歳であった。五年二月に東京鎮台第三分営大貳心得(部隊長格)、六年四月名古屋鎮台大貳心得、八年に熊本鎮台歩兵第十四連隊長となる。十年二月二十二日、西南戦争で熊本鎮台救援に向かう途中、先述の連隊旗事件があったが、四月二十二日に中佐に進級、凱旋後の十一年一月二十六日、歩兵第一連隊長に補された。(*連隊旗事件については後ほど詳しく記す。) 

  若い頃からすさまじい放蕩癖で、しかもゾロリとした着流しで柳橋辺りに出没する乃木は、「あれでも軍人か」と陰口を言われ、周囲は乃木の身を固めさせようと気を揉んでいた。宮本直和『大阪偕行社附属小学校物語』によれば、この縁談を持ち込んだのは、副官の伊瀬地好成大尉である。伊瀬地は鹿児島藩士出身、嘉永元年生まれで明治四年の御親兵募集に応じ、七月二十五日初任が陸軍少尉、乃木とは出発点で三階級も違ったから、乃木中佐より一歳上ながら大尉第一連隊副官であった。日清戦役では大佐で歩兵第二連隊長、三十三年に任陸軍中将・第六師団長に補され、三十七年の日露戦役での留守近衛師団長としての功績で、四十年に男爵を授けられたほどの人物である。伊瀬地大尉は鹿児島の生家の隣に住む薩摩藩士湯地定七の娘を紹介した。両家は高島の生家とも近かった。

 十一年七月に行われた見合いの場所は、麹町区紀尾井町の伊瀬地大尉宅で、この邸はのちに大嶋久直に譲られ、今は上智大学構内にある。大嶋は秋田久保田藩の出身で、伊瀬地と同じ嘉永元年生まれだが、明治四年五月に初任中尉、日清役で勲功を立て、二十八年男爵。日露役でも功績あり、三十元年陸軍大将、四十年子爵に昇った。この日は伊瀬地家の
新築祝いで、野津鎮雄中将、野市道貫大佐、高島鞆之助少将ら、主に薩摩出身の軍人が来賓として出席した。その宴会の手伝いに狩り出されて立ち慟いていた静子を、野津鎮雄が乃木に見せて快諾を得たので、新築披露の席は一変して婚約披露宴となった。二人は同年八月二十七日、高島鞆之助夫妻の媒酌で結婚した。乃木は二十九歳、湯地静子は二十歳であったが、乃木は婚儀の前日も柳橋で遊蕩し、舟に乗って式場にやってきたという。

 
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/139-92a73973



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。