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落合論文(6)-4
 吉薗周蔵の手記(6)-4

 野津道貫、高島鞆之助、乃木希典を結ぶ因縁

   近衛参謀長・野津大佐は明治九年七月から三ヶ月間、米国フィラデルフィア万国博覧会に出張を命ぜられた。この万博は米国が独立百周年を記念し開催したもので、日本政府は博覧会事務局を設置し、田中芳男を派遣した。田中は伊藤圭介の門弟で、本・医学を学び、文久二年蕃書調所に出仕し、維新後は博覧会関係の職務に就くことが多く、農商務省農務局長から元老院議官を勤めた功績で明治四年男爵を授けられた。日本はこの万博に、陶器・漆器始め多くの工芸品を出品して日本の工芸技術の高さとジャポニズムの魅力を世界中に知らしめた。出品作品の「唐子獅子舞装節夫香炉」や「四季草花堆朱箪笥」などは今もフィラデルフィア美術館に飾られている。電話が初めて出品されるなど、逸話の多い万博だが、野津の派遣理由と任務については未詳である。

 明治九年十月二十四日、熊本「神風連の乱」を皮切りに、二十七日秋月の乱、二十八日萩の乱と不平士族の反乱が相次いで起こる。教導団長・高島大佐は十一月四日萩に急行、大阪鎮台歩兵八連隊のうち二大隊を指揮し、広島鎮台司令長官・三浦悟楼少将と相携えた敏速な作戦により、萩の乱を鎮圧した。

 翌十年二月十五目、西南戦争が起こる。十九日政府は征討大総督(総司令官)に有楢川官親王を任じ、参軍(副司令官に山県有朋陸軍中将及び川村純義海軍中将、第一旅団長に野津鎮雄少将、また第二旅団長に三好重臣少将を補した。薩摩車の攻撃目標となった熊本鎮台では、司令長官・谷干城少将が兵力差を勘案して篭城作戦を決断し、これを支援するため小倉第十四連隊長心得・乃木希典少佐に熊本城守備の命令が下る。
 二月二十二日、第十四連隊を率いて熊本に向かう途中、乃木少佐が連隊旗を薩摩車に奪われる有名な事件が起きる。同日、高島大佐は長崎警備隊指揮官に補され、旧薩摩藩主・島津久光を説得するための勅使・柳原前光と随員陸軍中将・黒田清隆に従い、三月一日黄龍丸に乗って神戸港を出帆した。勅使一行は八日、鹿児島の錦江湾に入るが説得は遂に成功せず、黒田中将は三月十四日付で西南役征討参軍に補せられた。
 高島大佐は、真正面の敵には滅法強い薩摩健児の性向に鑑み、別働隊を設けて熊本南部で薩摩車の背後を衝き、補給路を分断する作戦を、黒田参軍に提案した。黒田は早速これを採用し、二十八日別働第一旅団長に高島少将(同日進級)を補し、別動第二旅団長に山田顕義少将、別動第三旅団長に川路利良少将兼大警視を補して指揮を執らせた。別働隊は顕著な功を挙げ、高島少将は十月十六日に凱旋するが、時に三十三歳であった。。
 一方、野津大佐は十年二月十九日、西南役征討軍第二旅団の参謀長に転じ、十月に凱旋。翌十一年十一月二十日に陸軍少将に進級し、陸軍省第二局長なる。時に三十七歳で極めて順調な昇進だが、それでも高島には追い抜かれたのである。
 
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