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落合論文(6)-3
 吉薗周蔵の手記 (6)-3
 
 吉薗ギンヅルは本当は誰に上原勇作の後見を頼んだか 


   南校で勇作の級友になられた伏見宮貞愛親王の洋行が決まり、随行員として勇作が選ばれ、絶好の機会と喜んだのは当然で、随行を熱望したが、野津が反対して実現しなかった、と伝記はいう。反対の理由は未詳であるが、後年勇作は述懐し、「あのとき随行しておれば、宮内省の一官吏に終わったかも知れぬ」と語っている。貞愛親王との交友関係も、陸軍幼年学校に転校しなかった理由なのだろうか。また伝記には、武田に将来の希望を聞かれた勇作が、「将来は海軍に入りたい」と述べたとある。海軍ならば英語を学ぶのが当然で、武田も面食らったと思われるが、これらの逸話からすると、勇作が上京の当初から、何が何でも陸軍志望だったとは思えず、将来に関しては別の選択肢も与えられていたのではないか、とも思える。

 そう考えると、ギンヅルが勇作の後見を頼んだのは、野津少佐よりもむしろ同居人だった高島侍従番長の方ではなかったか。京の薩摩藩邸の女中頭をしていたギンヅルは、薩摩の若手藩士の多くと親交があったが、とくに高島鞆之助との間は格別だったことが後年の二人の関係からも推し量れるからである。伝記が何度も強調するように、勇作が当初から軍人志望だったならば、後見人の高島や野津が、幼年学校の募集要項や応募条件を見落とすことなぞあり得まいと思う。
 
 高島鞆之助は七年五月十三日、侍従番長から転じて陸軍に入り、初任が大佐で、陸軍省第一局副長兼局長代理となり、八年二月には陸軍教導団長に転じた。また五月九日の改正で、兵学寮幼年学校が独立して陸軍幼年学校となり、武田が校長に就く。折から勇作は同校を受験するが、時に数え二十才で年令超過のために受付を拒否されたが、野津大佐が一歳ごまかした願書を出し直して無事合格、六月七日を以て第三期生徒として入学した。事実であろうが、都合が良過ぎる。恐らくこの頃になり、上原の針路が最終的に陸軍と定まり、夜学の師匠・武田成章が陸軍幼年学校の校長に就任したのを奇貨として、高島と野津が示し合わせて、同校に勇往を押し込んだのではなかろうか。陸軍教導団長と陸軍幼年学校長は、正に同格の同僚だから、高島は武田に対して極めて工作し易い立場にあった。勇作の入学くらい、どうとでもなった筈だ。

 上京以来、海軍入りや文官への選択肢も含めて、勇作の進路を探っていたのは、叔母の吉薗ギンブルたったことは間違いない。明治八年二月二十三日、勇作は島津藩士上原尚実の養嗣となり、以後は上原姓を名乗ることとなる。

 
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