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落合論文(6)-2
  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (6)-2

「フランス学研究」で錯綜する学歴に隠された秘密

   ここで、陸軍の幹部養成制度について述べると、明治二年九月大阪兵学寮が創設され、十二月には新生徒が青年学舎に入校した。後の士官学校である。大阪兵学寮には青年学舎のほか、三年四月に京都の仏学伝習所から移行した教導隊、五月に横浜訳語研究所から移行した幼年学舎があった。
 明治四年十一月、大阪兵学寮は陸軍兵学寮と改称し、十二月十日を以って東京に移転、同時に沼津兵学校も東京に移転して管轄下に入り、教導隊工兵生徒となった(因みに、海軍では明治二年九月に東京築地に創設した海軍操練所を三年十一月、海軍兵学寮と改称し、のちの海軍兵学校となる)。

 明治五年六月二十七日、陸軍兵学令が改正され、陸軍兵学寮管轄下の各学校は、青年学舎が士官学校、幼年学舎が幼年学校、教導隊が教導団とそれぞれ改称された。七年八月、士官学校は兵学寮から独立して陸軍士官学校と称し、翌年二月に第一期の生徒募集を行なった。幼年学校も八年五月に独立、陸軍幼年学校と改称して最初の募集を行うが、第一・二期生は陸軍兵学寮の時に入校していたため、初入試の対象は第三期生徒であった。

 野津邸に落ち着いた龍岡勇作が、将来の陸軍幹部を志望するのであれば、目指すは陸軍兵学寮の幼年学舎ということになる。ところが陸軍兵学寮もろとも四年末に東京へ移転した幼年学舎は、五年六月の陸軍兵学令の改正を以て幼年学校となるが、この年には募集を行なわず、翌六年の入校生か第一期生徒となる。一方、二月二日に野津邸の書生となった勇作は、早くも二十一日から武田成章の私塾に通い受験準備をしていたが、幼年学校が生徒募集をしなかったので南高を選び、六月に合格したものであろう。南校の入学年限は数え十六歳以上で、勇作は十七歳であった。

 伝記の巻末年譜には「五年六月大学南校(大学予備門)に入り、官費生としてフランス語を学ぶ」と記すが、大学南校は、二年十二月に開成学校が改称したもので、四年七月の大学廃止後は単に「南校」と呼ばれたから、正しくは南校である。「官費生には寄宿舎が提供されたが、依然として野津邸に寄食した上原は、明治五年十一月に至り夜学に行くことを許され、初めて算術を学び、ついでフランス学を研究し、その後、武田成章の塾に入った。野津家の用務を終えた後、武田塾に通ってフランス語を学ぶこと三か月、フランス人と直接対話できるまでになり、以後は開成学校に通った。ほどなく大学南校の入学試験に合格した」と伝記の本文は語るが、これは正確ではない。

 まず、開成学校も大学南校も、ともに南校の旧名だから、記載内容が重複しているし、五年六月に南校に入学したとする年譜との間に、前後撞着がある。真相は多分、上京直後の五年二月末から武田成章の夜学塾に通い、三か月後の六月に、早くも南校((開成学校)に合格したのであろう。

 因みに、武田成章は文致十(一八二七年生まれの旧伊予大洲藩士で、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、更に佐久間象山の門弟となり、洋式兵学を学んだ。象山の推挙で幕府に出仕し、函館開港に際してペリー提督の応接員として函館に派遣され、その後は同地に留まって函館奉行の下で諸術調所教授となった。わが国郵便制度の父と呼ばれる前島密(のち男爵、同じく鉄道制度の父たる井上勝(のち子爵)はその時の弟子である。北辺防備の強化を願う函館奉行の依頼を受けた武田が、オランダの築城書を頼りに築造したのが五稜郭で、工事は安政四(一八五七)年に始まり元治元年(一八六四)年に完成した。武田はまた、本邦で初めてストーブを発明したことでも知られている。
 維新後の武田は、明治五年頃には東京で兵学・フランス語の塾を開いていたが、勇作は二月末からひとまずそこに通い、三か月後に南校に合格した。

 伝記は錯綜しているが、「明治五年十一月云々」と明記したのは、誤解とは思えない。おそらく勇作は南校一年生の五年十一月からフランス語と数学の補習のために、再び武田塾に通うことを命ぜられたのではあるまいか。荒木貞夫が監修した伝記は、勇作の当時の境遇をあたかも野津邸で酷使される一介の学僕のごとくに語るが、私塾通いといい南校への進学といい、あるいは補習塾通いとといい、野津邸では一介の書生にあるまじき厚遇を受けていたというのが正しい。荒木編纂の伝記が、辻棲の会わぬ体たらくに終始したのは、上原自身が、自分の前半生の真相ことにワンワールド関係をひた隠しにしたからだと思われる。
 因みに、武田ほどの偉材を新政府が見逃すわけもなく、明治七年三月に陸軍入りした武田は、初任陸軍大佐で陸軍兵学寮大教授に補せられた。陸軍兵学寮の管轄下の幼年学校は明治六年になって第一期生徒を募集するが、そのあたりの情報を、近衛参謀長・野津大佐や高島侍従番長が知らぬ筈もない。明けて南校の二年生になった勇作に、幼年学校への転校を進めて当然だと思うが、それをしなかったのは、それなりの事情があるのだろう。


 

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