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落合論文(6)-1
 
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(6) 

「上原勇作応援団」の正体を探ると、隠された近代が見える

本稿は、陸軍元帥上原勇作の個入付き特務であった吉薗周蔵の自筆手記に、隠された日本近代史の解明を目的とするものである。
 当然ながら元帥その人を知る必要があり、それには上原を育てた陸軍中将高島鞆之助、元帥野津道貫、元帥樺山資紀、陸車大将川上操六らの事績を知らねばならない。樺山と高島は単なる軍人でなく、正体は政治家で、むしろその方に本質があった。ところが、この二人は、世間に対しいかにも朴訥の薩摩軍人らしく振る舞ったので、生存中ですら「一介の武弁」と見られていた。当今に至っては、史家も僅かにその名前を知るのみで、もしそれ論考に至っては皮相の羅列に終始し、真相を穿ったものをほとんど見ない。本稿が彼らの事績を考究するのは、そのことが『周蔵手記』の解読のみならず、近代史の隠された真相に迫るために不可欠だからである。
 極言するならば、高島鞆之助が判らなければ、日本近代史は判らない。かかるが故に、読者諸兄にはもう少々我慢してお付き合いを願いたい次第。

 1.上京直後、近衛参謀長・野津道貫邸に寄留決定の不思議

 明治四年春、御親兵募集に応ずるため上京した三十一歳の野津道貫は、七月二十三日に少佐に任ぜられ、翌五年八月中佐に進級した。七年一月大佐に任じられ、近衛参課長心得に就いた。野津の三歳年下の高島鞆之助も陸軍入りを目指したが、西郷隆盛の推挙によって宮内省侍従に挙げられ、明治天皇の近臣となった。二十八歳の高島は、妹が野津の夫人だったので、老母・家族とともに義弟の野津少佐邸に同居していた。
 龍岡勇作(のちの上原)の実兄龍岡資峻も、四年八月に御親兵を目指して上京し、近衛第二大隊に編入されたが階級は低く、翌年十月に陸軍伍長に任じられた。十六歳の勇作は兄の後を追って単身上京を決意、十二月十五目に都城を出て翌五年の一月十四日に東京に到着したが、訪ねた兄の兵舎では下宿が不可能なため、一旦柴田藤五郎の家に寄寓し、二月二目に至り野津邸に寄食することとなった。
 それを同郷人の斡旋によるものと『元帥上原勇作伝』(以下単に「伝記」とする)に記すが、上京後わずか二週間で近衛参課長邸に寄留する話がまとまるなぞ尋常ではなく、その裏では勇作の叔母・吉薗ギンヅルが采配し、同郷人を使って寄宿話を進めたものと見て間違いない。ギンヅルは明治二年に愛人の公家正三位右衛門督堤哲長に死に別れ、忘れ形見の次長(後の吉薗林次郎)を提家に認知さすべく運動しながら、浅山丸などの高貴薬を製造販売して提家の財政を支えていた。浅山丸は都城藩にとっても貴重な財源で、ギンヅルは同藩の製薬事業にも関与していたのである。
 伝記には「是れより兵学教官武田氏に就き研学す。二月二十一日、外国語学校へ入学」とあるが、勇作は野津邸に下宿した直後、高名の兵学者武田氏に就いて学んだようだ。武田は当時、フランス語の私塾を関いていたので、伝記にいう外国語学校とは、実は武田塾のことと思われる。また、上京直後、柴田が学問の方向如何を問うたところ、勇作は「フランス学を学びたい」と答え、さらに「将来の目的如何」と問うと、「軍人たらんとするにある」と答えたと伝記はいう。軍人志望を唱えたのは薩摩士族の境遇からして当然のことであるが、明治三年制定の兵制で、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式ときまったから、これは陸軍を志望する意味である。

 

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