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白川静・『桂東雑記』など
 *「忘れられない言葉」(「競馬放浪日録」)にも紹介した白川静氏。
  近刊(2007.4.9平凡社)の『桂東雑記』の津崎史による「あとがき」には、こうある。

 「・・・たしかに、何故か<父>と<死>とは結びつかないような錯覚に陥っていた。取材にみえた編集子らは、大抵が帰り際に、妖怪か仙人をみるごとく父を眺めていたものだ。そして、誰もが、小さな桂の家の、天井まで本に埋もれた空間で、いつまでも仕事をするものだと決めていた。・・・」

 「<生きの験>(いき の あかし、この「験=あかし」も当然変換できないところが一興だが)としてまとめておきたいと考え」て始まった『桂東雑記』(『回思九十年』の続編としてとも)の最終刊である。

 白川静・「お薦め本」となると答えは「すべて」以外にありようがないのだが、先ず私の「出会い」から書いておくと、始まりは松岡正剛・『遊』誌でのこと、「遊字論」「道字論」(1978~)の連載記事であった。
 以後、既に刊行されていた『漢字の話ー中国文化の原点』1・2(1976年東洋文庫)以来その「思想的一撃」を「引きずって」只今に至っている。
 

 印象的な(思想的なパンチを喰らった)文章を紹介する前に、めずらしく氏の「激情」を吐露した文章を『文字逍遥』(1987.4平凡社、1994.4.15平凡社ライブラリー)から、「第四章ー漢字の諸問題」のなかの一文、「文字学の方法」を紹介する。

 この「文字学の方法」は、

 * 文字学への道
 * 資料の問題
 * 音義説について
 * 文字学の方法
 * 文字学の目的
 という構成になっているが、これが書かれた「動機」は氏の「憤怒」である。
 
 以下要約して記してゆく。・・・ 


  *「・・私(白川)にとって、いかなる場合にも、語源は興味ある課題ではない。おそらく数十万年にも及ぶであろうことばの歴史を、わずか三千年前の限られた資料で追跡しうると考えるのは、一の妄想である。・・中国には多くの文献が残されているが、これら選ばれた文献は特定の目的に奉仕するために、本来の姿を留めていない。・・
 民族的資料も変転の激しいこの中国社会にはほとんど遺存するものがない。
 このような事情のうちに、私はこの三十余年を、その同時資料である卜辞や金文とともに過ごしてきた。
 
 私の漢字に対する理解のしかたは、必ずしも一般の研究者と同じでないかもしれない。一般に文字学は、いまでも許慎の「説文解字」を出発点としている。また文字学の方法も人によってことなるであろう。
 

  本誌(『文学』1970年岩波書店)七月号に『漢字』(白川、岩波新書)の書評を寄せた藤堂明保氏のように、私と考えかたのちがう人があるのは当然である。しかし、方法は異なるとしても、私も文字とともにくらしてきたものである。・・・
 私の研究も、清朝の学者が殆んど知ることのできなかった卜辞や金文を資料として、中国の文化と精神の原点である古代への探究を進めてきたのである。

 文字学への道は、長くけわしいものであった。・・・
 清朝の文字学研究は許慎の「説文解字」を超えることはできなかったが、その許慎の当時既に文字の原初の形態をとらえることは、甚だ困難なことであった。(戦国の分裂期には地方的な変化が激しく、字形が崩れていき、秦の統一時には統治の必要からの字体の統一ー簡略化などがあった。)
 
 藤堂氏の「字形に対する無頓着さ」や「漫画的理解」の例を具体的に列挙してゆき、続く「音義説」では「文字は音を示すために作られたものでなく、言葉の意味を示すために生まれたのである」と確認しながら、こう記す。
 「・・私の『説文新義』には、古代の賢人たちを必ず身体障害者にしなければ満足できないふしぎな学説の所有者である前東大教授(*故人)の説や、章太炎の亜流(太鼓持ち)にして古代文字=漫画としか理解できない貧困な思索力の持ち主は、」すべて相手にしていない、と。
 

 以後も具体例を挙げての痛烈極まりない藤堂への反批判が続くが、略して、この一文の文末に進もう。

   *************** 

「・・さいごに、私がこのような文章を書くに至った事情について一言し、読者の寛容を求めたいと思う。私ははじめ、このような品格をもたない書評を視する考えであった。それは氏の書評が、社(岩波)からの依頼原稿であるということであったし、またこのような節度のない非難には、もちろん笞える必要がないと考えたからであった。この書評は、あらゆる点で書評としての節度を無視している。特に私の従来の研究に対して、殆ど知識をもたれていないようであり、驚くほど理解が不十分である。それは私としては一向にさしつかえないことであるが、私がこの書の執筆者として不適当であるというような発言は、私の研究に不案内な人ならば、なお慎むべきであろう。しかしそれも、私にとっては何の痛痒もないことである。ついには本書の編集部に対しても、執筆者の選択を誤ったという攻撃が加えられた。これについては私も著者として共同の責任を負うものであるから、不本意であるが一言する必要があると思うに至ったのである。本書の企画が決定したのは、すでに七、八年も前のことである。われわれは相当の準備の上、種々の制約のために多くの図版や凸版を整理し、初稿を検討して全面的な改訂を加え、ついに成稿に達したのである。

 多くの友人たちが、私にこの書評についての感想を述べてくれたが、それは概ね二つの点で一致していた。その一つは、評者は果たして『漢字』を理解しえているのであろうかということであった。また少なくとも書評の執筆者という責任の上に立って、理解しようと努めたのであろうかという疑問が述べられた。研究上の論争ということならば、このような形式でいうべきではないからである。第二には、この書評には一種の権威主義的妄想があるのではないか、ということであった。私もこれらの感想には同感である。なお私としてもうひとつつけ加えておきたいことがある。それはこの『漢字』がやがて反動者に利用されるであろうとし、「どういう連中がそれを言い出すかは、もう目に見えている」という、思わせぶりな結末の一語である。おそらく評者は、自らが全共闘の闘士であるという自負のもとに、この発言をしているのであろうが、全く余計なことである。

 私はその書の末尾に「古代文字の世界は終わった」としるしておいた。古代文字の研究は、学問としてそれ自身のの目的をもっている。その後の漢字の歴史、国字問題としてしての漢字については、またちがった次元の問題として考える意味を、私はこに含めておいたつもりである。権威主義と学閥の愚かさをにくむがゆえに、私は今日まで孤独に近い研究生活をつづけてきた。学問の世界はきびしく、研究弧詣独往を尊ぶ。
 それぞれの研究者が、それぞれの世界をもつべきである。しかし真摯な探究者が他に一人でもいることは、大きな力であり喜びである。たとえばいま、有坂秀世のような人がいてくれたならば、私も音韻学の上から適切な批判を受け、自己の研究を進める上に、有益であったのではないかと思う。学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。」

 ****************
 

 『文学』1970年9月号では文末は、少し異なる。その異同を確認しておく。

  1.『文学』にはなく、本で追加された文は上記文末の「・・それぞれの研究者が、それぞれの世界をもつべきである。」と「・・学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。」の二箇所である。

 2.『文学』から削除されたのは文末の次の一文である。(他にも細かい訂正があるのか否かは今は不明である。)

 「・・私はこの文章を、一種の寂寥の感を以てかきつづけた。私は再びこのような文章に時間を費やし、この伝統ある雑誌の誌面をけがすことは避けたいと考えている。読者の方々も、読みづらい気持ちで読んでいただいたことと思う。ただこのような文章をかく必要に迫られた私の気持ちに対して、読者の理解と寛容とを願うほかない。」 
 
 
<註> いま、「有坂秀世のような人がいてくれたなら・・」と白川静氏に言わしめる夭折の学者については、『日本書紀の謎を解く』の森博達氏もその著で一文を呈している。
 
 「・有坂秀世
 上代日本語の音価推定の研究は少なくありません。その中で最も本格的かつ重要なものは、有坂秀世氏(一九〇八~五二)の遺稿『上代音韻攷』(一九五五年、三省堂)です。二百字詰原稿用紙三千枚という大冊です。主要な部分は、二十四歳の有坂氏が結核療養中の一九三三年に著したものです。慶谷壽信氏によれば、雛型は東京帝国大学に提出した卒業論文であったようです(「有坂秀世博士の卒業論文について」(一八八九年)。
 有坂氏は日本語音韻史のみならず、中国語音韻史でも画期的な発見をしています。名前を聞くだけで粛然とします。アイヌ語の研究者として有名な金田一京助氏は弟子を追憶して、『上代音韻攷』の序文にこう記しています。
 「有坂秀世博士が、昭和の言語学界に、彗星のごとく現れて、彗星のごとく去られた、そのあまりにも輝かに、そのあまりにもあえなさ、ぼう然としてわれらはただ驚嘆するばかりである。
 玉のような人柄に、不世出の偉才、われら生まれ合わせて咫尺(しせき)し、親しくその温容を仰ぎ 咳唾、珠を成す謦咳に接することを得たのは、何という幸せであったろう。
 有坂氏は早熟の秀才でした。没後出版された『語勢沿革研究』は、旧制一高の三年生、十九歳のときの研究ノートです。特にその第三編「古代母音の研究」は、古代日本語の母音交替の法則を発見した画期的な研究です。「かざかみ、かぜ(風)」・「たかし、たけ(丈)」・「荒らす、荒れる」はa-eの交替、「つくよ、つき(月)」・「くつわ(轡)、くち(口)」・「おく(奥)、おき(沖)」はu-iの交替というように、四種の整然たる法則性を発見し、その意義を考察しています。
 有坂氏は東大の言語学科へ進学して、橋本進吉氏の上代特殊仮名遣の研究を知ります。その知見によって研究ノートの第三編を改稿したのが、「国語にあらはれる一種の母音交替について」です。慶谷氏はこの経緯を丹念に辿って、研究ノート第三編の学史上の意義を顕彰しています(「有坂秀世『語勢沿革研究』にみえる『vowelgradationノ法則』一九六年)。

 奇シクメデタキワザナリ

 この研究ノートには、あとがきに相当する「感想」が付記されています。若き有坂氏の突き詰めた心情がひしひしと伝わってきます。十八歳の有坂氏は強度の神経衰弱にかかり、まだ立ち直れないでいるとき、ふと思いついたことがありました。
ソレハ「ふね、ふなびと」「あめ、あまがさ」ノヤウナ対ニアラハレル母音ノ変化ト、あくせんとトノ間二何力関係ガアリハシナイカ、トイフコトデアツタ。(中略)人生モ事業モ、何等ノ価値ノナイヤウニ感ゼラレテ、一切ノ頼ムニ足ラザルヲ思ヒ、(中略)藁デモ棒デモツカマウトアセツテヰタ私ハ、モハヤタダコノ一ツニ望ヲカケテ生活ヲツヅケルョリ外二仕方ガナカツタ。一度研究ヲ生活ノ中心ト定メルト、私ノ興味ハ急激二加速度ヲ生ジ、ツヒニハ熱心ノ度ヲ超エテ狂熱的二全生命ヲソレニ叩牛込ムヤウニナツタ。
 有坂氏は、研究に生の証しをかけていたのです。一高・東大を通じての同学、服部四郎氏(東犬・言語学科教授)はこの遺著に読後感を寄稿しています。
 私がまのあたりに見た大学生時代の勉強ぶりや、仄聞した高等学校時代の勉強ぶりは、全く人間業とは言えないもので、30分とぼんやりしていた時間はないと言ってよいほどだった。(中略)しかしとにかく、研ぎ澄まされた刃のようにこぼれ易い神経の持主であったことを 知っておくことは、同君の学問を理解する上に必要ではないかと思う。私も、迂闊なことに、数年間はそのことに気付かないでいたが、同君はそれほどすべての表現において控え目で、心情の表出を抑制する人だったのである。
 有坂氏の人柄を知り、研究ノートの「はしがき」を読むと、名状し難い感覚に襲われます。時ハ来タ。時ハ来タ。半年ノ間待チニ待ッタ時ハ来タ。過去五年間ノアラユル研究、、アラユル努カハ報イラレタ。誰か科学研究ヲ個人主義トイフ。コノ感激、コノ歓喜、ソレ自ラガ証明スル。奈万之奈三巻ノ中二幾度トナク繰返サレタ義門上人ノ言葉「カヘスガヘスモ奇シクメデタキワザナリ。」ノ真義ハ誰カ之ヲ解スル。」


白川氏は「生きの験(あかし)」、有坂氏は「生の証(あかし)」として「狂」を遊学する姿を我々に見事に示してくれた。


        以上。

 
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