カウンター 読書日記 (続)柄谷行人『戦前の思想』
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(続)柄谷行人『戦前の思想』
 2.マルクスが見落としたこと

 ハイエクは、進歩するたに自由が必要てあるといいますが、同時に、自由のためには進歩が必要なのです。なぜなら、プラス・サム・ゲームが実現されないなら、貧富の差は耐えがたいものになるからです。
 ここに、いくつかの疑問があります。それは、第一に、自由放任が予定調和に至るか否かであり、第二に、無限に「進歩」が可能なのか、ということです。たとえば、市場経済の自動調整機構(アダム・スミスのいう「見えざる神の手」)には、岩井克人が「不均衡累積理論」で明らかにしたような内在的な欠陥があります。それは、原理的な欠陥です。事実、その結果として、「共産主義」のみならず、国家が介入するケインズ主義もファシズムもでてきたのですから。

 フランスの未熟な産業資本主義から出発したプルードンの考えは、19世紀後半においてもすでに牧歌的なものです。マルクスの『資本-国民経済学批判』は、そうした資本主義の(カント的な意味での)「批判」であって、たんなる否定ではありません。プルードンは、「財産は盗みである」といったけれども、こんな単純なことでは資本主義はわからないのです。しかし、マルクスはどんなにイギリスの資本制経済を批判しても、ドイツに帰国しようとは(帰国できたのに)しませんでした。なぜなら、そこには「自由主義」がなかったからです。・・(中略)・・資本主義を解明するためには、イギリスにいるほかありません。

 しかし、マルクスの認識上の欠陥は、むしろそこにあったのです。彼は、ブルジョアジーはますます豊かに、プロレタリアートはますます窮乏化し、両極分解するという見通しをもっていました。純粋に「自由主義」であるならば、たしかにそうなるでしょう。ところが、彼は、資本主義経済が、純粋に経済的ではなく、政治的な、いいかえれば国家的な介入によってあるということを見ようとしなかったし、見なかったのです。
 
 たとえば、イギリスは、アダム・スミスが反対したにもかかわらず、膨大な植民地を領有していました。そうすると、イギリス入は、労働者といえども、そうした植民地からの利益を享受できるわけです。いわば、「窮乏化」は植民地の人間が引き受けているわけです。したがって、マルクスのいうことはグローバルには当たっているのですが、イギリスのなかでは当てはまりません。

 しかし、それ以上に重要なことがあります。それは、マルクスが見下していたドイツにおいて、宰相ビスマルクのもとに、国家による介入と統御によって資本制生産が発展したことです。・・(中略)・・
 このようにドイツ国家資本主義の優位は、普仏戦争(1870年)における、ブロシャのフランスに対する勝利によって象徴されます。そして、その裏面において、フランスの敗戦によって生じたパリ・コンミューン(1871年)の敗北があるのです。この敗北は1848年以来の、いいかえれば、『共産党宣言』以来の運動の終焉を意味しています。以後、「社会民主主義」が革命運動の主流となりました。たとえば、プロシャのフランスに対する勝利に関して、ニーチェは、勝利したのは文化ではなく、国家にすぎないといっています。(『反時代的考察』)。別の観点から見れば、パリ・コンミューンの敗北も同様なことを意味するでしょう。それは、諸個人の「連合」に対して、「組織」「党」「システム」が勝利したこと、いいかえれば、革命運動のなかで、「国家」が勝利したことを意味するのです。
 

 その結果、「社会民主主義」が社会主義運動の最も支配的な形態となった。そこでは、一国のなかでの議会主義的変革、国家による計画的な経済政策が提唱されます。(晩年のエンゲルスもそれに近づいています。)レーニンはカウツキーをマルクス主義の「背教者」と呼んだけれども、カウツキ-はエングルスの考えに従っていただけてす。「第ニインターナショナル」は、そうした社会民主主義によって形成されたものですが、ここでのインターナショナリズムの矛盾が露呈したのは、第二次大戦においてです。各国の社会民主党は参戦を支持した。それは、社会民主主義が「国家」に依拠する以上、不可避的でした。

 社会民主主義にとって代わったのは、自然成長的な大衆運動とは別次元にある「前衛党」を主張したレーニン主義です。
レーニンは、マルクス・エングルスの片言隻句を掻き集めて「暴力革命」と「プロレタリア独裁」の理論を固めました。ここにおいて、「国家」の支配が全面的となります。レーニンは、社会民主主義が参戦したのに対して、「帝国主義戦争から革命へ」という戦略を掲げ、ロシアの敗戦に乗じて革命を成功させました。この成功が「マルクス=レーニン主義」の優位を確立したわけです。ここに、「共産党」による「第三インターナショナル」(コミンテルン)が形成されました。この時点では、それはなお「インターナショナル」ではありましたが、ヨーロッパにかける革命の挫折とともに、「一国社会主義」的となり、スターリンのもとでは、コミンテルンは、ロシアがそれを通して世界の運動を支配する機関となってしまいました。
 
 
   いうまでもなく、それは今日破産しています。今日各国の共産党は名を変えていますが、名を変えようと変えまいと、それは基本的に「社会民主党」に類するものです。しかし、「共産党」はまちがったから「社会民主党」にもどればよいという考えは、前者が後者からはじまっていること、それが第一次大戦で破産したことを忘れている。すなわちそれは、「国家」を自明の前提とするものであり、本質的に国家主義・保護主義であるほかありません。その点で、自由主義者のハイエクがいったことを想起すべきです。

 ハイエクは、「共産主義」はいうまでもなく、社会民主主義、福祉国家、あるいはケインズ主義を否定していました。つまり、彼はそうした思想に存する「分配的正義」(平等)という考えが自由をおびやかすと考えたのです。《分配的正義の原理は、一度導入されてしまうならば、社会全体がそれにしたがって組織されるときに初めて満たされることになるであろう》。《これはあらゆる基本的な点において自由社会とは反対の社会である。すなわち、個人が何をなすべきか、またいかにそれをなすべきかを権威者は決定する社会をつくり出すであろう》(『自由の条件』)

 それに対して、ハイエクは、市場経済の自動調整機構に任せるべきだというのです。そうしないかぎり、必ず「国家」が強くなるというわけです。しかし、自由主義は、少なくとも第一次大戦において破綻していました。1980年代の「自由主義」も破綻しかけています。特にアメリカにおいて、レーガン主義はまさに富の「不平等」を露骨にもたらしました。しかも、世界経済は構造的な不況に陥り、各国は保護主義的な動きを見せています。
ここで、現状分析をするつもりはありませんが。ただ、私がいいたいのは、「自由」と「平等」は原理的に背反することであり、それは今後においても解消されることはないということです。

  
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