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続・落合論文
 *陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(5)-5

 <明治天皇侍従番長として至誠を尽くした高島>

 

  天皇の傍らに侍した高島侍従番長は西国巡幸に際し、明治5年5月23日から7月12日の還御までお側を離れず、九州沿岸部を視察した。さらに六年四月五日小金原における陸軍大演習にもお供した(『 明治史要』に鎌倉演習としてあるのが不思議)。大演習の総指揮は元帥兼近衛都督西郷隆盛が執ったが、近衛局長官少将篠原国幹の指揮ぶりを御目にした天皇は、「皆も習え篠原に」と仰せになり、それが習志野の地名となった。また、8月3日から31日までの両陛下の箱根・宮の下温泉での御静養にもお供した。

 以上のほか、侍従番長時代の業績に明治6年11月の北海道出張がある。元来日本の領土であった樺太は、幕末ロシア帝国の侵出が激化した際、国際情勢にうとい江戸幕府では対応できず、慶応3年の仮条約により日露両国の共同管理地とされてしまい、以後、明治8年5月7日の千島・樺太交換条約までの間、両国民が雑居したが紛争が絶えなかった。日本は南北分割のため国境の確定を望んでいたが、明治5年10月から始まった交渉でロシア側が全島の領有権を主張して譲らないため撤退を決意し、売買譲渡することとし、参議副島種臣が条件交渉に入った。
 明治6年10月14日西郷の朝鮮派遣を巡る左院での閣議の席上で樺太事件に対する外務卿の派遣が論じられているが、事件の詳細は分からない。とにかく、この政変で政府部内が分裂し、副島も下野することとなり、交渉は中断した。直後の10月9日、樺太でロシア人の暴動が起こり、日露間に緊張が高まった。近代日本が初めて遭遇したこの国際的事件の収拾のために、明治天皇は高島を派遣し、高島は天皇の信頼に応えて無事任務を果たした(『 大阪借行社附属小学校物語』 )というが、政府が分裂して対露交渉に支障を来したので、とくに高島侍従番長が派遣されたものか。

 いまひとつは、明治7年3月の佐賀表出張で、2月4日佐賀の乱が起こり、山県有朋が陸軍卿から近衛都督に転じ、東伏見宮嘉彰親王が2月23日付で征討総督に任じた。高島の任務は天皇の意向を前線司令官に伝えることらしい。3月27日首魁江藤新平ほか元侍従・島義勇が縛に就き、佐賀の乱は収まるが、高島は5月11日に陸軍入りし任陸軍大佐、陸軍省第一局副長兼局長代理に補せられた。

 高島の7歳下の妹・登女子が野津に嫁したから二人は義兄弟であるが、3歳の年長で3年先任の野津道貫が大佐に抜擢されたばかりなのに、初任大佐と超抜擢の理由は、侍従番長時代の功績にあることは明らかである。野津は三番大隊附教頭として出仕し、明治4年7月23日陸軍少佐に任ぜられ、麹町区下二番町に邸を構えた。明治4年末に上京した上原勇作が下宿した時、野津と高島の二家族が共同生活をしていたが、高島の母・貞子が野津夫人の母でもあったから、不思議はない。
高島の次女・球磨子は樺山資紀の血縁の樺山資英(後の満鉄理事)に嫁いだから、高島家は樺山家とも野津家とも縁威になるのである。

 
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