カウンター 読書日記 『間脳幻想』・(1)
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『間脳幻想』・(1)
 *『間脳幻想』  藤原肇・藤井尚治 発行:東興書院 発行者:落合莞爾 1998.11.18 

 「百年後に残る書籍」「次の時代に残る」一冊がここにある。
 


 なお発行者の落合莞爾氏は紹介中の「落合論文」の著者です。為念。

 以下、順次紹介していきます。

 先ず、藤原肇・「まえがき」~「目次」~藤井尚治・「あとがき」の順に。
 

  ★まえがき 

  交友関係などと形容したら、藤井さんに叱られてしまうかもしれないが、本書は10年近く続いた私と先生との友宜の結晶である。そしていつもマイクロコーダーを脇に置いて、野に在る二人の人間が自由に交わした、楽しい会話のエッセンスが活字になったものである。
 最初の頃は、私の問題意識の乏しさと実力不足から、折角先生がつき合って下さったのに、話題をほり下げることが出来ないで終わったことが多かった。そして、何年か経ったあとで同じテーマに遭遇した時に、辛うじてその問題に食いつけたことが幾度もあり、同じ人間同士が取り交わすお喋りでも、内容がこれほどまでも違ってしまうものか、という印象を抱いたものだった。私には何を論じているのか見当もつかない、あの難解なジャック・ラカンの著作を愛読する藤井さんは、意味論をマスターした人として日本人には珍しい存在である。

 10年近く続いた対話のお陰で、百科全書置の流れをくむ先生の博識と厳密な定義づけにより、混乱気味の私の用語法がかなり整理できたことは第一の収穫であった。それと共に、会話を通じたヒラメキと思索の意味に開眼できたことが第二の収穫であり、その成果は読者と分かち合うことができると思う。
 また、本書は教科書的な知識や解説とは程遠く、一度目の通読では先生の発言の背後にあるものが搦めないかもしれないが、藤井先生という日本が生んだ鬼才の横顔は、その思想と共に幾分なりとも浮き彫りにできたという気がする。
 日本に医者と呼ばれる人は幾万人と存在するにしても、医師・法学博士という名刺が示すように、古典的なマギストルとして錬金術までやってしまった医者は、そうざらに居ないのではないか。
 テープからの書き起こしは延べで数カ月を費やしているが、それを編集して「師のたまわく」という古典スタイルを思い出しながら、私はソクラテスの思想と対話したあのプラトンの喜びと共通するものを味わったことを冒頭にまず記録しておきたいと思う。

 私が藤井先生に初めて御目にかかったのは、1980年の秋に日本を訪れた時だった。
 その頃、内容が過激にすぎるということで、どこの出版社も活字にしてくれなかった原稿を、『虚妄からの脱出』という題名の本にして下さった東明社の吉田社長が、「銀座内科の藤井先生があの本を読んで、面白いと言って二〇冊も買ってくれました。あれだけの名医が良いと診断した本を出版できたのは、当社の名誉だし、藤原さんも安心したら良いです。
そこで提案だけど、記念に二人で対談してもらい、それを私が関係している月刊誌に掲載したいのですが、御願い出来ますか」と半ばおだてられて、私は対談を引き受けた。
そして、吉田さんに連れられて銀座の交差点に近い藤井先生の診療所に行ったが、その日のことは、まるで昨日の出来事のような新鮮さで記憶に蘇ってくる。

 激しい地上げ屋攻勢にさらされているので、一年後にはどうなるか分からないが、本稿執筆の時点では銀座内科は銀座に健在であり、診療所の様子は今も昔も少しも変わっていない。その間に10年の星霜が移り変ったことが嘘のようだが、吉田社長が私を藤井先生に紹介したあと、対談が始まったのは午後二時半だった。
 気さくな口調で先生がいろんな話をするのだが、正直に白状してしまうと、最初の5分間というものは、先生の語の10%しか私は理解できなかったのである。
 日本人同士が同じ日本語で喋り合うのに、そのほとんどが理解できない、という局面に遭遇して、私は大いに当惑した。それでも、何とか相づちをうっているうちに10分が過ぎた。吉田さんが心配そうに私の顔をのぞきこむのだが、私は圧倒されたまま 上ずった声を出していた。                          
 過剰分泌のアドレナリンに刺激されて、エンドルフィンまで出始めたか、私の頭の中には幻覚まがいの効果が拡がって、先生の姿が普通の人間の三倍も大きく見えていた。


< 目次 > 

第一部 生命現象と医学の狭間

 宗教と魔術の落とし子。医学
 健康は中庸から
 ストレス学説と浴場精神 
 直観は仮説作りから生まれる
 分裂症と管理社会 
 ストレスとの上手なつき合い方 
 生命の多層構造とビールス 
 遺伝子の生体環境としての人間


第二部 間脳機能と実存感覚

 多層構造の世界
 脳と教育制度のパラレリズム 
 大学と大脳 
 未熟児の時代とR複合体症候群 
 脳と地球のアナロジー 
 生命の中心"視床下部と副腎
 バイオリズムとホルモン 
 太陽脳と月脳 
 間脳機能と錬金術 


第三部 自然と文明を統一する原理 

 ハイゼンベルグを超えた世界
 クスリ九層倍の魔術 
 ミネラルが支配する生命現象
 宗教感情と生の原意識 
 黄金分割の秘伝 
 古代人の幾何学的才能と黄金分割の美学
 秘密結社の源流 
 ルネッサンスと科学精神の懐胎
 フィボナッチ数列と宇宙の秘密
 フィボナッチ数列のダイナミズム


 あとがき   藤井尚治 

 昭和34年だったろうか。東京で国際ペンの大会のあった時である。
 暮夜近く、私の机上の電話機のベルが鳴り、おそらくは私の耳でかつて聞いたことのないほどのバスが、名乗った。
「私の名は、アーサー・ケストラー。足下は、私の畏友、モントリオールのストレス学者ハンス・セリエらとともに、東京で研究を推進しているフジイ教授ですか」
 教職には居なかったが、横文字の世界では、プロフェッサーもドクターも、敬称の一部と考えていいから、″ストレスのフジイ″に相違ないと応えると、すぐに会いたいという。身辺に日本人が居て、私のオフィスを教えたらしい。20分後には、ドアをノックする音が聞こえた。

 電話の低音に驚いていた私は、今度はケストラー氏自身が、骨格こそ私に比べてやや骨太だが、身長は私よりも2,3センチ低身の小男であることに、もうI度驚ろかされた。
 しかし、ユダヤ系というストレスを生まれながらに背負い、国際共産党への参加と転向。G・オーウェルとともにスペイン戦争を「失望のために」闘い、続く第二次世界大戦では連合軍のために、「半ばの真実を以て、百の虚偽を撃て」のスローガンを提供しかつ実行した。大戦終わっては、科学技術さえ含めて、反人間的なほとんどすべての現代の矛盾を提示し、必要に応じ、かつ可能な限り破砕して止まない(後には、その思考と生き方の一部はニュー・サイエンスの名の許に、たとえ試みとしても、現代を未来に結ぼうとする試みの主将となっているらしい)。その年輪とエネルギーは感じられた。
 坐して珈琲。タバコは当時多かった新生を、口から離さない。

「足下は、臨床医として、ストレスに苦しむ者を、どう捉えるか」
「コス派の医学が主流となってから、医師は、クライエント(患者。精神分析では、依頼者を意味する、この語を用いる)の主訴は従とし、客観的なデータに依存度を高めるばかりだが、ストレス医としての私は、主訴(主観)と客観性を、両存させて判断し、可能な範囲でその微調整を手伝いたい。いうなれば、検事役となってしまった現在の医師に対する、弁護士の立場を主張してみたいと思っている。私見では、貴著の『ヨギと人民委員』の主題、ハイゼンベルグの不確定原理は、臨床医術にとっても、もっとも厳しい問いかけではあるまいか。(*原文の厳は酷)
  一光年彼方の惑星の爆発を想定してみよう。直視している見者は、なお一年、この星を視覚の中に、客体として捉える。しかし、天上からか側面からの観察者には、この客体の実体はすでに存在しない。
 そして・・・」
「両者の立場を同時に取りえないのが、人間だよ。

 しかし、同時性を論じる前に、私の自己紹介を果そう。
 ストレスに苦しむケストラーは、人間観においてはネオ・フロイデアンであり、社会人としてはエクス・マルキスト(マルクスを継ぎ凌いだ者)、そしていまのところでは、ゼネラル・セマンティクス(一般意味論)に関心が深い。
 東京の意図の一つは、国際ペン大会への参加であったが、改めてセマンティクスの重要度を認識したに止まる」

**注 一般意味論=言語その他の記号の厳密な使用を訓練することによって、人間の環境に対する反応の習慣を改善しようとする学説(広辞苑)。ケストラー氏の場合は、意味論以前の、共通の論争の場さえ用意していなかった国際ペンの集命に愛想をつかして、退席してしまったらしかった。
どういう訳か日本ではほとんど評価も紹介もされることなく、カナダから合衆国に移り、上院議員として時々その名を散見した、意味論中興の祖といわれるサミュエル・早川教授が「日本語に、普遍性を持つ抽象語が少いというよりは皆無に近いことは、有識者として自覚してほしい」と、現役の学者のころ、助言というよりは忠告のかたちで、訴えておられたのがいまも思い出される。エネルギーにせよ、ストレスにせよ、漢字をどう行使しても、表現し難いものだろうと語ったのを、銘記している。

 いづれにしても、初対面の両者の自己紹介の底流に、ある共通のいわば主題が発見されるのを感得した私は、こう尋ねた。
 「医としても若輩の私が、百戦練磨の尊兄に、いうなれば臨床医の立場で現代という怪物に対峙する処方をお漏し頂けないだろうか」
 「ディバンキングに始まる」
 ニコリともしないで、即座に答が返ってきた。
  (**注 ディバンキング(Debunking)=虚偽の正体をあばく)
  一人旅と独身者の気軽さもあって、翌夜は当方からケストラー氏を宿舎の国際文化会館に訪い、『一九八四年』の著者G・オーウェルとの出会いと評価。個と全体との対立と、質による適応の難易。これはそのまま後の『機械の幽霊』や、日本では未見の人の多い、天才論に発展したようだ。
 数日後、さらに深夜の来訪があり、来日の途次ィンドで調査してきた、ヨガの与える脳波と、
禅中の脳波の差異について、私見を求められた。いまでは識者の間では、常識化しているが、ヨガの示す頼状波は、テンカン発作時のものに似て烈しい。
 [冥想中、ヨギは意識の深層に泳び、縁者は和定に直線すると説く」
 答になったかどうか。

 後にその資料を整理した『ロボットとロータス』に対し、日本の諸書子は、白眼視していたが、絶対者を予断してしまっては、百%のコンミュニストや国粋主義者に対すると同じように、共通の言語はなくなる。当然意味論も不用だろう。
 帰路の門出は15分の珈琲だった。それは、同時に本書の発端だったかも知れない。
                                        
 
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